2016/02/01 大江健三郎「洪水はわが魂に及び 上」(新潮社)-1
2016/01/29 大江健三郎「洪水はわが魂に及び 上」(新潮社)-2
の続き。
小説の場所に注目。長い長編ではあるが、舞台はとても限定的。
1.勇魚は開発途中の郊外にある斜面に作られた家に住んでいる。これも奇妙なところで、この国の最初の核シェルターで、居住実験のために勇魚に格安で提供される。そのうえに分厚いコンクリートで家を乗せ、全体の雰囲気は潜水艦とでもいうべきところ(戦闘になると、立てこもったメンバーは部屋を船室のような名前にする)。周囲は湿地帯で手を入れられず、セイタカワダチソウ(当時移入されて、ススキを押しのけるように発生していた。大発生するのは1980年代)が生えている。双眼鏡でのぞける範囲に巨木が見える。
2.「自由航海団」は放棄された遊園地に、クルーザーを隠したアジト(元撮影所)を持っている。廃工場のような建物は、植物に覆われ、外から発見しずらいようになっている。
3.「自由航海団」は勇魚の口利きで、西伊豆の造成地で軍事訓練を行う。人里からは離れ、嬌声も銃声も不審に思われない。
物語はおおよそこの3つの場所に限定される。共通するのは、放棄されたりして外の人が入ってこれない荒れ地であること。勇魚は望んで、人との関係を切って核シェルターに隠遁したのであり、喬木の「自由航海団」は左翼や右翼の蜂起や革命の観念はないものの、自衛のための武装と軍事訓練を行うために外部との接触を極力避ける方針をとっている(都市の地下に潜る秘密結社の方針を堅持しているわけね)。
勇魚は自ら望んで家庭や社会と切り離され、喬木の率いる「自由航海団」も生活や社会を嫌悪している。そのためにこのような荒れ地に定住するか放棄された土地を放浪するしかない。そのために、この小説には彼らを取り巻く人々がいない。冒頭の遊園地にも観客はいないように書かれるし、何度か勇魚が「怪(け)」や妻に会いに都会の病院にいくときも路上やビルに人はいない。核シェルターにこもったときも周辺には住民がいない。せいぜい「自衛隊は流れ弾を打ち込むな」とダンマクを貼るくらい(勇魚と喬木はそれも「地域エゴイズム」とさげすみ笑うばかり)。この比較的長い小説には、勇魚とジンの家族、自由航海団の数人しか登場しない(固有名のあるのは喬木と多麻吉と伊奈子のみ。ほかは「ボオイ」「赤面」「無線技士」「ドクター」「縮む男」など愛称しかなく、無名の連中がいるが全体で何人いるのかすら明らかにされない)。この少数の人たちが狭いところに閉じこもり、他人との関係を結ばないまま観念をさらに硬直化していく。
勇魚と喬木の世界認識や理念には「樹の魂」や「鯨の木」という巨木が中心に据えられているのだが、そのような巨木は都市のどこにもない。あるいは西伊豆の軍事キャンプでも巨木を探そうとしない。二人の持つ「樹木」との交感はできないような場所をうろつく。代わりにあるのは、象徴的な樹木。勇魚の核シェルター付の建造物(のちの要塞戦では旗を掲げる)であり、喬木のクルーザーのマスト。これらは樹木の形をしているが、大地と接していないので、そこを通じて「樹の魂」「鯨の木」と交感できない。土地において、勇魚と喬木の観念は実現不可能になっている。
(「自由航海団」は自由を獲得するために外洋にでようとして挫折した。外洋には世界の中心になる樹木がないためだ。自由航海団の若者に似て、反社会性の集まりである四国のある藩の若者25人は、船に乗って外洋にでる代わりに、川を遡上していった。臭いにおいのする崖を爆破した先に巨大な樹木を発見し、そこを根拠地にした。なるほど観念のメタファーである樹木のあるところで、豊饒や連帯があるとうわけだ。それはのちに「治療塔」でも同じ。こちらは樹木ではなくドームであったが、宇宙的な意志との交換が可能な場所であった。しかし時間がたつと樹木の力は失せてくる。挫折と象徴としての樹木の倒壊/炎上は、この後の作品のモチーフになる。「同時代ゲーム」以降の村=国家=小宇宙サーガの樹木であり、「頭のよい雨の木」であり、ギー兄さんの構想した沼沢地のある「懐かしい年への手紙」である。たぶん「燃え上がる緑の木」もそうだろう。)
土地からも人々からも離れたグループが、荒れ地や放棄された土地に集まって、祝祭的な気分を盛り上げる。無邪気で無垢な人々が遊んでいるのに対して、社会や世界は制裁を加える。グループからするとそれは宇宙的な意志や地球に住む言葉を操れない良いものによるのであれば受容できるのであるが、実際には不正な社会や汚れた大人が弾圧する。その不条理と暴力のすさまじさにグループは圧倒され、押しつぶされる。そういう物語だ。
(その光景をかつて読んだことがあったな。長編デビュー作「芽むしり仔撃ち」。この長い長編は30代なかばの作者による語り直し。デビュー作では大人の暴力は社会に服従を誓わないものを追放することまでだったが、こちらでは機動隊の鉄球打撃や放水などの直截な攻撃となり、ついには「洪水は我が魂に及」ぶまでに至って、すべてを飲み尽くす。でもそこまですると、回復や再生のモチーフがなくなる。そのせいか40歳をすぎてからは、同じような観念の虜になった人物を描きはしても、語り手は死には誘惑されない。生き延びることが次のテーマになっているのだ。あわせて、主人公勇魚は障害をもった息子と暮らすことを選んでいるのだが、「自由航海団」の言葉の専門家になり、観念を言葉に描くことを十分に展開することによって、ビジョンとミッションの達成を優先することにする。すなわり障害をもつもっとも無垢な子供の養育を伊奈子とドクターに任せてしまうのだ。なので、このモチーフは「個人的な体験」の決心のネガでもある。勇魚の育児放棄とも思える決断は賛否が分かれるところになるだろうなあ。自分は支持とも不支持ともいえないのだが。
その光景を後の作品で読んだことがあったな。長編「宙返り」。こちらでも過去に何ごとか事件を起こした教祖が、宇宙的な意志と交感する瞑想にふけり、新たな土地を獲得して、グループを率いて移住したもの、現地を折り合いがつかなくなる。ジレンマに立たされた教祖は、山車の炎(だったかな?)で自らの体を燃やす。そのことがグループの追求を止めることになり、周囲のさまざまな人々をオブセッションから解放することになった、と思う。教祖の自己犠牲があって、救済が現れたのだった。とはいえ、教祖の祈りはどうにも個人的なもので、普遍性にいたらず、周囲の理解を得られない。そこらは喬木のイデアが「自由航海団」にさえも共有されない、しかし人々がそれぞれの思いを勝手に結ぶことでつながりが広がっていくのと同じだった。確かこの「宙返り」では教祖は身体に不自由なところがあったはず。障害をもつ子供とその父という関係はこちらではひとつに統合されていたと思う。)
荒れ地や放棄された土地を舞台にし、しかしその真ん中に巨大な樹木が立っている小説が初出と同じころに連載されていた。石川淳「狂風記」。こちらでは、さまざまな欲望を持った人々が勝手な思惑を抱いて、どんどん関係を結んで、社会を引っ掻き回し、歴史を掘り起こし、挫折と達成を体験していったなあ。生のパワーで圧倒されるようであり、その点で死の衝動に突き動かされるこの「洪水は我が魂に及び」とは著しく異なる。
2016/01/27 大江健三郎「洪水はわが魂に及び 下」(新潮社)-2
に続く。