odd_hatchの読書ノート

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大江健三郎「洪水はわが魂に及び 上」(新潮社)-1

 世界はいずれ(近いうちに)大壊滅にあうだろう。大地震か、核の爆発か、環境汚染の結果か、いずれとも決め難いのだが、その予兆はいたるところにあり、どうしがたいところまで来ている。なので、われわれは世界が壊滅し、人類が滅びるときに備えて、撤退の準備を整えないといけない。

 なるほど、初出の1973年では、大阪万博までの明るい「未来学」は消えて、資源枯渇による災厄の到来や上記の人間の愚かさとか、あるいは大魔王の予言成就デマなどで、地球と人類には破滅しかないのではないかとよく言われていた。その時代を知っているものにとっては、書籍や雑誌で流れるこれらの主張よりも、テレビで放送される戦争や公害や強制代執行や強行採決などにも強い恐怖を感じていた。いずれそれらの悪や無や崩壊は自分のところにまで届き、未来は暗いものになるだろう、という思いになったものだ。そのあたりの時代の気分がこの小説に色濃く反映している。あわせて当時の左翼運動やそれに影響された市民運動(およびそれに対抗する国家や警察やカウンター市民など)の暴力の雰囲気も反映している。
 さて、このような世界の大壊滅という予測を共有する人のなかには、極めて少数ではあるが、あらかじめ大壊滅に用意しようとする人たちがいた。小説では、二つのタイプが描かれる。
 ひとりは大木勇魚(いさな)。右翼の大物政治家(権力の巨大さから「怪(け)」と呼ばれる)の息子にして、秘書。「怪」の異常な嗜好に付き合いかねて、障害を持つ子供が生まれたのをきっかけに秘書を辞め、この国に唯一の核シェルターを備えた堅牢な構造を持つ家に子供と二人で暮らす。軍艦のような窓から双眼鏡で、住宅のない周囲に生えている巨大な樹木を眺めている。そうすることで、彼は「鯨の魂」「樹の魂」と交感しようとする。勇魚によると、人類が滅んだあと「次の存在」が現れるであろうが、そのときに地球でもっとも頭の良い生物は人間ではなく鯨であることを伝えたい、そして人間の愚行を繰り返さないように忠告したい。それが自分の使命であると思い込んでいる。なので、いずれ伝えるべき相手が現れた際には、以上の人類の意図を説明し、障害を持つ息子ジンを引き受けてもらうときに、使命は完了し、そのときに命が尽きるであろうと信じている(このオブセッションないしビジョンは次作の「ピンチランナー調書」の「森・父」に引き継がれる。父が右翼や大物実業家で、その遺志を継がないか反抗する息子というモチーフは「ピンチランナー調書」の「森・父」や「同時代ゲーム」の語り手である「僕」に引き継がれる)。
 もうひとりは、若者たちを集めて「自由航海団」を組織した喬木(たかき)。世界が大壊滅するとき、地上のインフラは破壊され、権力システムも機能しなくなる。長期間のパニックで、人々は「原始状態」に戻って収奪と混乱にあるだろう。そこにおいて選ばれたものは蜂起や混乱をいや増すことに尽力し、治安部隊や国家と対決するのである。そしてクルーザーなどを利用して、外洋にでて治安の回復を待てばよい。多くの難民が殺到する可能性もあるので、「自由航海団」は武装して対処する。なんとなれば世界が大壊滅しても、選ばれた少数者が残る限り再建の可能性はあるから。なぜ喬木が選ばれたかというと、生まれた四国の山に「鯨の木」があり、彼は若い時から樹木と交感してきた。「樹の魂」は具体的な命令は下さないにしても、その意図が「わかる」のである、その指示を具体化するのが自分の使命である。
 世界の大壊滅を前にして、静かにその時を待つのか、あるいは抗戦しながら根拠地を獲得するのか。運動のやり方の違いはあっても、世界認識を共有していることから彼らは行動の一致点を見出す。そのうえ、「自由航海団」のほぼ全員が理解しない「鯨の魂」「樹の魂」にも霊的な感覚に共感する。彼らは自分に欠けたものを相手に見出し(喬木は勇魚に言葉の専門家になることを期待、勇魚は喬木に尻押しされることを期待)、共闘するようになる。彼らは年齢が離れているものの(勇魚は40歳前、喬木は30歳前)、ほとんど双子。離れ離れに育った二人が、核シェルターをもつ建物を媒介に出会って、物語は始まる。
(世界がいずれ壊滅するというペシミスティックな世界認識をもち、人類の伝言を次の存在に伝える報告者と自己規定し、行動するものと言葉を奏でるものが分裂しているというのは、この後の「ピンチランナー調書」と同じ。なので、「洪水は我が魂に及び」と「ピンチランナー調書」は同じ話を繰り返している。前者はシリアスで悲劇的に、後者はフォースで祝祭風に、と語り口は変えているが。これは「同時代ゲーム」と「M/Tと森のフシギの物語」で行ったことと同じ。
 勇魚は「鯨の死滅する日が人類の死滅する日」と考えているが、同時期に作家が上梓した第3エッセイ集のタイトルが「鯨の死滅する日」文芸春秋社。鯨へのオブセッションは小説的な仮構ではなく、作者自身のものでもあったようだ。この長編のまえの「ムーン・マン@みずからわが涙をぬぐいたまう日」でも書かれる。
 また、1980年代になると、行動するものと言葉を奏でる人は一人の人格に統合される。「懐かしい人への手紙」のギー兄さんとか、「治療塔」の朔ちゃんのように。物語の語り手もオブセッションを持ち、何かの使命をもち、機会をまっているものから、仕事を持ち、比較的円満な人格を持って社会との関係を良好に保つものに代わる。図式化すると、冒険したいものから家庭を守るものに変化する。)

    


2016/01/29 大江健三郎「洪水はわが魂に及び 上」(新潮社)-2
2016/01/28 大江健三郎「洪水はわが魂に及び 下」(新潮社)-1
2016/01/27 大江健三郎「洪水はわが魂に及び 下」(新潮社)-2
に続く