odd_hatchの読書ノート

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イマヌエル・カント「啓蒙とは何か/永遠平和のために」(光文社文庫)-1

 カントの政治哲学や歴史哲学の論文を読む。道徳論の難解さはここにはなくとても平易(下記にあるように翻訳のせいかもしれない)。楽しみながら高揚しながら読むことができました。まあ、素人であるおいらがカントの考えを正確に伝えられるはずもなく、解説することなどおこがましい限りであるので、ここでは自分の生き方や行動に参考になるのはどのようなところか、可能性はどこにあるのかという視点でまとめと感想を書くことにする。

啓蒙とは何か----「啓蒙とは何か」という問いに答える 1784年 ・・・ 人間は他人の指示を仰がなければ自分の理性を使うことや、使う決意や勇気を持てない「未成年」の状態にあったので、そこから抜け出る「啓蒙」を進めよう。他人の指示を仰いで理性を使わずにいるのは楽だしリスクを取る恐怖に直面することはないけど、そうしていると理性を使うことを危険と脅し成年になることを妨げようとする「後見人」を僭称する人々の思いのままにさせられるよ(戦争に行かされて、殺し合いをさせられるのだ)。で、「未成年」の状態から抜けだすには公衆に自由を与えればいい。個人の自由も重要だけど偏見や思い込みや感情にとらわれて普遍に至っているかどうかの検証が難しい。でも多人数が集まった公衆の場で理性を使えば、過ちや驕りなどを修正できるから。理性を公衆の前で使用するうちに、人間は自由(カントのいう自由は好き勝手にという意味はないし、他人に不正をしなければ何でもいいよというものでもなく、内面で決定した法に従っているかどうかで決まるというのだが、おいらにはよくわからない。ともあれカントは自由に特別な意味を込めていることに留意)に行動する能力が高まり、統治の原則になり、機械化されることから免れるよ。
(公衆の前で理性を使うことで、権力や機械化からまぬがれられるという希望の書。)

世界市民という視点からみた普遍史の理念 1784年 ・・・ 「啓蒙とは何か」で示した人類の可能性を社会でどのように実現するかを概説する。カントが言うには、歴史は意志の現象としての人間の行動の物語であって、集団としての自由の発達を認識できる。被造物の自然的な素質はその目的にふさわしい形で完全に発達するように定められている、というテーゼが出発点(18世紀後半の議論なのでつっこまないように)。人間以外は形質において発達するが、人間でようやく理性をつかえるようになり、幸福や完璧さは理性の使用で実現できる。集団として理性を使うのであるが、社会の構築に向かう一方で、個人に分裂しようとする動きもあって、この対立があった。啓蒙(に基づく運動)でこの対立は解消して、道徳に基づいた社会、すなわち法を施行する市民社会を設立する。市民社会ではあっても王ほかの支配者の統治もあって、互いに矛盾が起きるがいずれ歴史の終わりで解決するだろう。市民社会の周囲にはほかの市民社会や公共体が生まれるだろうが、対抗しあわないように国際的な連合を設立して回避しよう。世界共和国と世界市民が生まれるだろう。人類の歴史はそこに向かうプロセスなのであり、哲学も参加しよう。
(なにしろ、イギリスとアメリカくらいにしか代議制のなかった時代なのだ。多くの国家は絶対封建制で、立憲君主制もまだまだ先のこと。理性の仕様から導かれる市民社会世界市民の構想と、現実の世襲制による君主の存在を統合ないし止揚する国家はまだない。また、世界共和国においては国家が消滅するのか、共和国に解消するのか不明。カントの議論では国家の取り扱いは難しいです。ここで示された世界共和国の理念は、たぶん現在のEUが目指している方向なのだろう。ただ、カントの議論には経済学はないので、世界共和国の運営はまだまだ手探り状態。統合と分裂がEU内部で交錯している。)

人類の歴史の憶測的な起源 1786年/万物の終焉  1794年 ・・・ 「普遍史の概念」を人類史(≒ヨーロッパ史)に当てはめる。エデンの園の楽園で知恵の木の実を食したところで理性の働きが始まり、農耕の開始で労働と不和が生じ、牧畜民との抗争で組織暴力が使われるようになり、集落で社会と安全が生まれ、都市が誕生する。で、類として道徳的な完成にいたったときに万物は終焉する(「最後の審判」とはそうしたものだそうだ)。
(まあ、18世紀後半に書かれた論文で、科学的な知見は乏しく、キリスト教で穴埋めをするとなると、こういう議論になる。解説では2つの論文からカントの歴史哲学を抽出しているが、素人である自分には不要。)


 以前「道徳形而上学原論」を読んだときには何をいっているのかさっぱりわからなかった。でも、こちらはすらすらと読めて大いに楽しんだ。カント独特の用語「悟性」「格率」などを使わないで、できるだけ平易に訳したというので、そのせいであるのだろう。
 カントの若い時の著作が今では自然科学の範疇にされるものであるとか、エマニュエル・スウェデンボルグと神学論争したとかのエピソードを思い出し、なるほど好奇心はとても広範囲に広がっていて、どの分野でも一家言をもっているという万能的な思想家であったのがよくわかる。なるほど歴史的遠近法を使うと、科学と神学の区別があいまいだし、歴史発展のステップもヨーロッパでしか通用しない議論であるし、市民社会と支配者の関係は今日的ではないなど、瑕疵を見いだせるだろう。それでも思想の可能性はあって、カントの意味する「啓蒙」はまだまだ必要である。当然のことながら役所の決定を周知するような「啓蒙」ではまったくないのでね。
 そのうえで、21世紀の読者はどのような方法で啓蒙を実践するのかを検討することになる。他人の指示を仰がないで自分の理性を使うにはどうすればいいか(リツイートばかりするのは理性を働かせていることであるのか)、他人の後見人を僭称する人々をどのように判別するのか(その基準はどこにあるのか)、公衆の前で理性を使用するのはどのようにしてか(SNSにつぶやくことは理性の公的な使用なのか)、理性を自由に行使することをいかに統治に反映するのか(投票のみでいいのか、陳情や請願を行うのか、路上の示威行動をするのか、あるいは自ら立候補するのか)など。カントは原則しか考えていないので、実践と倫理は読者が加えていかないとね。そういう行動への誘いまで含んでいるということで、この本は「希望の書」。

  


2016/06/29 イマヌエル・カント「啓蒙とは何か/永遠平和のために」(光文社文庫)-2 1795年に続く。