幽霊やオーラを見ることができる知り合いが何人かいて、ときどき霊を見たという話をしてくれる。聞くと、彼ら、「見える」ひとたちは自分のような凡庸な人とは別の苦労をしょっているみたい。子供のころから霊的体験による恐怖に会うとか、メンターについて1年以上の修行をして能力をコントロールできるようにするとか、場所に敏感になるので行動が制限されるとか、前世の死の記憶をみるとか。いやあ、大変そうです。
ただ、彼らにしても霊界にいったことはないそうなので、行った人の記録を読むことにする。
エマニュエル・スウェデンボルグは名前の通りスウェーデンの人で、1688年生まれ、1772年没。霊界に行った時の体験を手記他に残している。この国でも昔から注目されていたらしい(鈴木大拙が研究していたとか)が、邦訳がそろったのはこの30年以内のことではなかったかな。とはいえ、分厚い本を読むのは面倒なので、今村光一が訳と編集を行った簡約版を選んだ。
(参考:鈴木大拙の研究が出版されている)
ここに書かれたスウェデンボルグの個別の体験を追いかけるのはやめて、霊界の仕組みに注目することにしよう。
まず、人間は肉体と霊で構成されているとする。肉体は限界があって、死を迎えるのだが、霊は不滅である。キリスト教だと肉-心-霊の3つに分かれていて、肉と心は限界があるとされる。デカルト以降の哲学では霊は不可知なので考察や認識の対象外となる。この書では心や意識の問題はほぼスルーされているので、スウェーデンボルグの肉‐霊の二元論は珍しいと思う。まあ、のちの霊界をみると、心や意識などの個別体験の記憶、知恵、理性は次第に失われていく(すなわち近代的な自我はなくなる)とされるので、無視してよいものらしい。
死後に人間はまず精霊界にはいる。ここは霊界(もしくは地獄界)に行くまでの準備期間。岩山、氷の山、峰々、山脈に囲まれた広大なところ(スウェデンボルグの故郷スウェーデンの風景。バルザック「セラフィタ」の舞台に継承される)。そのうえ人間界にあるもの(町、村、住居など)もそのままある。家族や友人などの人間界の関係はここで解体される。複数ある霊界の団体から自分の所属するところを選択して、それぞれの霊はそこに行く(あるいは霊的本源によって行く先がきまるらしい)。で霊界の団体にはいったら、ほかの団体とはいっさい永久に関係することがなくなるという。
準備が整ったら、霊界にはいる。ここは徳の違いによって上中下の三層に分かれていて、上界には10数名足らずの少数者のみが入れるらしい。というのも、上層にいくほど光がまばゆくなってその下の層にいる霊にはみることができない(ダンテ「神曲」の天国篇だな)。現実の太陽に似た霊界の太陽があって、そこから霊流がおしみなく流れている。その流れを霊が受け入れることで、霊は不変で永遠の命を保っている。層の中には無数の集団があって、中心霊のまわりに霊が集まって集団生活をしている。霊界では男女の結婚もあって、一つの霊になる。つぎつぎと新たな霊が入ってくるが、霊界では新たに人間界に赴く霊も生まれている。まあ、霊は物質のように一所を占有することがなく、複数の霊が一所に重なり合うように存在?できるというので、過密の問題はないらしい。
霊の徳がたりないものは地獄界にいく。霊界の地下にあって、自分の欲望を満足することにかまけている連中が集まっている。赤裸々な悪(窃盗、強奪、傷害、器物破損など。たぶん殺人はない)があって、秩序のない暗黒の世界らしい。
人間界と霊界はつながっていて、ときに霊界の作用が人間界に起こるという。予知夢、生前の記憶、霊魂離脱、臨死体験などがそれ。これらのオカルトが18世紀のなかばにはすでに出揃っているのに驚いた。話の内容が現在の最新のものと差異がないのにも。
死後霊界にいってしかもより上層にいくには、生前の行いや思想によるわけではない。ここには因果応報の思想はないものと見える。そうではなくて「霊的な窓を開」いているか、どれほど大きな窓かで決まるらしい。窓を開くには、霊的な秩序を守ることと心を素直にすることが大事だそうで、「直ぐなる心」をもてという。なんとも曖昧模糊ととしていて、なにをどう実践すればよいのやら。具体的な方法が一切書かれていないのでもどかしい。何ごとかを思いついても、スウェデンボルグ師の意図にかなっているかは判断できないので、たぶんいつまでたっても師のおめがねにかなうことはあるまい。
というような霊界の仕組み。なんだあ、18世紀の思想のアマルガムなのね。人間界-精霊界-霊界(ないし地獄界)という構造もダンテ「神曲」をそっくりいただいている感じ。霊界の構造とか入団儀礼とか排他的な小集団があるとか世俗の人間関係の否定とかは、当時はやったフリーメーソンの仕組みにそっくりじゃない(スウェデンボルグはフリーメーソンに関係していたらしい。どちらがどちらに影響したというのは自分にはよくわからない)。死後の霊に「導きの霊」が現れて、霊界の説明をするというのも同様。ここらあたりは、モーツァルト「魔笛」に出てくるザラストロの教団が参考になる。道にはぐれたタミーノが弁者やザラストロの導きによって数々の誘惑や試練に耐えて教団に入会するというストーリーはこの本に書かれた霊界に入るステップと同じ。霊界の太陽が霊流を放出しているというのはネオプラトニズムの「流出説」。霊界の文字はエジプト神聖文字に似ているというが、その当時エジプト学が盛んだったことの反映かな。幽霊話がさかんにでてくるのはこの時代にゴシックロマンスが流行っていたのと並行関係にある。リンネやゲーテのような近代知識人も霊や超常体験に興味を持っていたし。この本には書かれていないが、太陽系の他の惑星にも生命だったか霊体が住んでいるという説も、ニュートンの成果を受けた18世紀が天文学の時代であるのと並行関係。なにか特別でユニークなイメージが描かれているかと思ったけど、出典が極東のスノッブにも当てられそうなものばかりで、期待が大きかった分がっかりした。
面白いと思ったのは、この精霊界と霊界には「神」がいないこと。超越的存在がいそうなことが示唆されているけど、それは隠れていて、霊がみることはできない。最上層にいる霊も元は人間であったわけで、人間が努力や生まれつきで神のごとき存在(にちかいところまで)に行けるという。ここも18世紀の科学と啓蒙の時代の反映だろう。通常のキリスト教の教義だと、人間は努力をもってしても神にはなれなくて、ただ一人神の恩寵を受けたキリストに帰依することでわずかに神に近づけるだけだからね。このあたりの科学と啓蒙の時代の子であるスウェデンボルグの教えはインスタントでコンビニエンス。同じ神秘思想家でも中世のマイスター・エックハルトだと、もっと厳しい戒律や勉強や修行を要求したからなあ(上田閑照「エックハルト―異端と正統の間で 」講談社学術文庫、エックハルト「神の慰めの書」講談社学術文庫など)。教義を習うとか修行をするとかの苦労をすることなく、霊界にいって永遠の生を獲得できるというのは、さぼりがちで怠惰な人にはありがたいなあ。そのインスタントなところが、現代のUFOやオカルト信奉者に継承されているのだろう。
(自分が読んだのは、訳者による編集・簡約版。ネットの情報を見ると、どうやら神学談義は割愛されている模様。著者にはキリストに言及した大量の文章があるらしい。そこらは全部この本(に限らず同じ訳者による別の翻訳でも同様のようだ)にはない。なのでこの節の感想は藁人形論法になっているみたい。自分の馬鹿さの記録のためにそのまま残しておきます。神学論議を省いたとなると、同時代や後世の影響を理解できなくなると思うのだが、スウェデンボルグの信奉者は気にしないのかな。)
デニケンやアダムスキーなんかが書いていることはスウェデンボルグに近しい。この頃の人気な言葉に「アセンション(次元上昇)」というのがあるが、これもスウェデンボルグの継承(というかパクリ)なのだろう。「五次元」とかの用語が新しいだけだ。
あと、18世紀の半ばころの著作なので、進化論はない(だから霊界他は階層になっていて、いったん階に固定されたら上下の移動すなわち変化はない)、宇宙の年齢も数千年(だからパスカル的な無限におびえることはない)、資本主義もない。19世紀以降の人からすると、退屈な世界だな。むしろこの人に影響されたが、近代を経験しているバルザック「セラフィタ」やブレイクの詩のほうが屈折していたり奇怪なイメージを追加していて面白そう。
(この18世紀の神秘思想家の読書感想文を「科学史」エントリーにも入れたのは、科学と哲学の分離が進んでいない時代の典型的な考えをみるため。19世紀からは「科学者」と目される人々のなかには、錬金術師・神秘思想家などが多数いて(コペルニクス、ニュートンなどが有名)、生気論やホーリズムを唱える人(ゲーテやヘッケルなど)がいた。今では棄却されたそれらの考えや傾注した人々の営為が当時の「科学」に深く関係していた状態がわかる。)
参考エントリー:
村上陽一郎「科学史の逆遠近法」(講談社学術文庫)
コペルニクス「天体の回転について」(岩波文庫)
トーマス・クーン「コペルニクス革命」(講談社学術文庫)-1
トーマス・クーン「コペルニクス革命」(講談社学術文庫)-2
ハーバート・バターフィールド「近代科学の誕生 上」(講談社学術文庫)
ブレーズ・パスカル「科学論文集」(岩波文庫)