5つの短編を収録した連作集。物語の中心にいるのは、溝口という始末屋。上からの命令で汚れ仕事、濡れ仕事を行う暴力的な男だ。岡田という若い男を助手にして、当たり屋をやったりゆすりをしたり。最初のうちは、内省的な助手の岡田の話が続くので、彼の物語と思うが、そうじゃないんだ。
第一章「残り全部バケーション」 ・・・ 父の浮気がばれて家族解散することになった一家。高校生の「私」はひややかにみている。父の携帯電話に「友達になろう」というメールが届く。現れたのは岡田と名乗る青年。仕事を辞めるといったら、でたらめな番号にメールを送信して友達になれたらと許すといわれたのだそうだ。食事をして海岸にでかけたあと、岡田は呼び出しを受けて去る。溝口の上の上司に呼ばれたらしい。タイトルは、家族解散した後の人生はバケーションにほかならない(それに岡田も共感)という述懐から。
第二章「タキオン作戦」 ・・・ 第1章の話の前のできごと。父親に虐待されているらしい小学生を見つけ、岡田がとてもまわりくどい復讐、というか脅しをかけるまで。コンゲームのネタが「ターミネーター」に「バック・トゥ・ザ・フィーチャー」なのが懐かしい。
第三章「検問」 ・・・ 岡田がいなくなった後、太った太田と組んだ拉致。ガムテープで縛ったあとがある女性を乗せ、大金を入れたバッグがあるのに、警察の検問では何も言われない。推理を働かせ、大金を山分けして女を逃がす。
第四章「小さな兵隊」 ・・・ 岡田の子供のころのできごと。担任の女性教師が怪しいというので、「僕」は岡田を監視し、先生に注意を払った。岡田は近くのビルの屋上に行き、アドバルーンを見に行こうという。タイトルは少年の岡田が「拷問シーンを見たい」といってレンタルビデオ店で薦められたDVD。なんとゴダールの映画。
第五章「飛べても8分」 ・・・ 新しい助手の高田(この章の「俺」)と組む。何でもない当たりやで失敗し、溝口は骨折し入院中。なんと上司の毒島も同じ病院に入院していて、数日後の誕生日までに殺すという脅迫状が届く。溝口は看護婦とだべり、掃除のおばちゃんの相談に乗っているばかり。「俺」は自力で事件を解決することを決意し、犯人を見つけたので、入院している部屋に行った。そこに溝口がやってくる。
個々の短編には主題がないし、とりわけトリッキーなストーリーでもない。どの章も「俺」や「私」の一人称なのだが、語り手はそれぞれ異なる。状況を正確に記述するつもりのない文体なので、しばらくはいつのどこの誰の話なのかがわからない。そこは面倒(いいえ、それは作者のいとがあるのです)。しくったかなと思って最終章を読んだとき、それまでの章の地と図が反転する。そのうえ、前の章の登場人物が最後の章で新たな光を当てられて、新生した姿を見出す。そこの手際は見事。あわせて裏家業で犯罪をすることで暮らしている人間(そのうちの一人は反省できない武骨でいやな男)が自分の稼業から「正義」を見出して、その実現に向かうというのが受けるのだろう(ラスボスに当たる人物もそうだし)。とはいえ、彼らのパフォーマンスは正義とはいえないのであるが(一度の正義を実現したからといって、彼の人生すべてが肯定されるわけではないし。例:芥川龍之介「蜘蛛の糸」)。そこは物語の書き方によって、彼らに深く感情移入し、かつ悪役の大きな変化に「感動」していて、深く考えないで済むようになっている。さいごに追い詰められたラスボスは賭けをするのだが、小説内では結果は書かれない。ストックトン「女か虎か」と同じくリドルストーリーになっている。そのときには読者はラスボスの説明に納得したい感情になっているので、まあ、答えはひとつなのでしょうね。
俺はすれっからしなので、元ネタが気になって気になって。第1章の「家族解散」は最初は糸井重里の初長編のタイトル。1980年代半ばに出たとき、家族観を変えるという高評価になったもの(今読まれているかは知らない)。人生の「残り全部バケーション」になるというセリフはアルレー「白墨の男」1980だな(こっちはブルジョア女性の退屈が主題)。タキオンを使ったタイムマシーンも1970-80年代に大流行。
以下ネタバレ。
溝口は岡田を差し出して保身したわけだが、岡田を殺したことを後悔して、毒島に銃を向ける。毒島はお前の読んでいるサキの書いたブログが岡田のものだ、生きているという。さて、ネットではサキ=岡田という説がある。これは無理筋。第2章や第4章で見せた「岡田」の性格(おせっかいとか正義の実現欲望、ニヒルでクールな外見とはうらはらのウォームハート、機転と度胸など)からすると、逃亡を許された岡田は困っている第1章の沙希(高校の寮でひとりぼっち)に連絡を取り、一緒に生活するようになった。溝口との接触を恐れ、毒島の警告もあり「岡田」の名は出さず、沙希もカナ表記にして目くらましにした。そのように考えるのが小説の設定からして自然。
あと最終章の語り手「高田」は頭の良い、たくさん本を読んでいる青年。これは自虐的な自画像ではないかな。彼の推理は見事で「事実」によく適合するのだが、それは真犯人の用意したプロットに従わされていた。論理的であり整合性が取れる解釈にこだわる頭の良い人が手玉に取られて笑いものになっているわけだ。頭の良い人が頭の良いことを隠さないで書いた小説であるという感想は今回も変わらない。そこに自虐ギャグが加わったとみるべきか。