odd_hatchの読書ノート

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ジャン・ラマルク「動物哲学」(岩波文庫)-2 著者の主張は、日々の生物の自然発生、使う器官の発達とつわかない器官の退化。努力による変異と獲得形質の遺伝は筆の滑りで、つじつま合わせの仮説。

2016/09/15 ジャン・ラマルク「動物哲学」(岩波文庫)-1 1809年 の続き。



 この時代は地球や宇宙の年齢を正確に測る方法がなくて、現在のわれわれから見ると憶測と大差ないくらいの不正確なもの。聖書の記載を累計すると6000年強。それはエジプト学の研究で間違いであると思われるようになり、科学者が代わりに推測しても10万年とか100万年とか。当時の時間や歴史の感覚はそのくらいであったとおもわれる。そのうえ、親子の類似という現象は知っていても、それを科学的に記述する語彙がない。そのために、ラマルクの記述では時間や歴史がほとんどない。変異が累を重ねるにつれて蓄積していくという考えはまったくない。
 「存在の大いなる連鎖」の代わりに、ラマルクは樹枝状順列(セリー・ラシュース)を構想する、地から天に向かう樹枝に、種が並んでいるという考えだ。そこには、歴史や進化という時間は入っていないように思われる。おそらく、彼の知っている地球や宇宙の歴史では、種や科、目、綱などを超える変異は生じえないと考えていたのではないかな。そうすると、彼の獲得形質というアイデアは、ある種と類縁する別の種の間に変異のグラディエーションがあり、ある種と類縁する別の種を区別する決定的な境界を引くことはできないということまでを説明するものだったのではないか。
 さて、ラマルクの考える変異の発生機構は以下のようなものだ。ただし、ラマルクの説明は「動物哲学」の中で一貫しているわけではない。全体として同じことが書かれているが、前半と後半では少しずつ違う。なので、文章の切り取り方で彼の主張はいろいろ解釈できる。一貫しているところを取り出してみよう。
1.生物は自然発生し、日々新しい種が生まれている。
2.同一環境で、同一条件が与えられていれば、発生した種は同じような器官と能力を発達させる。(1と2を合わせてみると、ラマルクの考えでは、地上で日々新しい種が自然発生している。地上の環境は多彩多様なので、生まれる種はそれぞれの環境ごとに異なる器官や能力を持っているのだろう。それが個体や種の多様性の原因。)
3.環境の変化は、動物に必要(besoin)に変化をもたらし、動物は行為を変えることになる。
 ここまでの考えは、斉一説と同じ(ということが池田清彦構造主義と進化論」に書いてあって、ほかの科学史家にもそう主張するひとがいるとのこと)。wikiの「斉一説」の項では、キュビエ、ライエルが主流ということになっている。
斉一説 - Wikipedia
 単純にいえば、過去起きたことは現在も起きていて、未来にも繰り返される。その起きていることは漸進的でゆっくりと連続的におきていく。とりわけ地球におきていることはそう。なので、環境の変化を受ける生物もゆっくりと変化していく。この変化は同じような形態や器官になる。ただ、動物は自然発生で日々生まれているから、発生後の時間経過の大小で、形態や器官に大きな差異が現れることになる。(ラマルクの説明の中では、生態学的な考えはあまりないから個体数の増加とかハビタートの拡大とかの個体群≒種の「進化」という考えはない。時間が経過するにつれて、人間に収斂していくから途中の形態の差異は優劣にはあたらないのだろう。)
4.動物が行為を変えることで、器官と能力に変異が生じる。それは、ある器官をよく使用すると発達し、使用をやめると器官は消失する。この発達や消失は個体内の流動体の運動による。
 ラマルクはいくつかの動物の器官が変化、特殊化したことを3と4をあわせて説明している。上にまとめたような説明を貫徹すると、目的論的な説明にはならないのだが、ラマルクは一度だけうっかりしてしまう。

「習性に関しては、麒麟(ジラフ)の特殊な形態及び身長の中で習性の所産を観察することは興味がある。周知のように、これは哺乳類中で最も身長の高い動物で、アフリカの奥地に生息し、その生活する地域は土地がほとんど常に乾燥しまた草も生えず、それがために、この動物は木の葉を食し、そして絶えず木の葉に届くように努力しなければならなかった。この習性はその種類のすべての個体を通してはるか以前から持続された結果として、その前足は後ろ足よりも長くなり、その顎は、その後脚で立って伸び上がらなくても、頭をあげれば6メートルの高さに達するほどに、伸びることになった。(P216-7)」

 ほかの器官の場合は、「必要」と持続の結果としてその形質になったというのに、キリンの例でだけ「努力」と書いてしまった。ヘッケル他追随者はここに飛びついた。獲得形質は生物個体の「努力」によって、選択的に「獲得」するものである、と。そのために、ラマルクは本人の意図を離れた学説を主張していることになった。
 もうひとつ「獲得形質」について。ラマルクは「獲得された形質」についてのべているが、それは環境の変化によって個体が器官や能力を使用し、それを持続して、当該の個体に起きた器官の発達または消失のことをいう。それが生殖によって次世代に伝わると考える。ここでは、環境が偶発的に個体に起こした変化(たとえば尾が切れる)は「獲得した形質」には当たらない。また奇形やアルビノなどは考慮外。博物学の興味の対象外だったのだろうね。そのうえ、このように「獲得された形質」は雌雄の両方に備わっているのでなけば、子に伝達されないと考えている。
 ここでもまた、ラマルクの本意ではない学説が彼の中心的な主張であると流布されてしまった。「努力」による変異にしろ、「獲得形質の遺伝」にしろ、本筋の主張を補完するつじつま合わせの仮説だった。少なくとも「動物哲学」第1部の主題ではまったくない。獲得形質を、種や亜種の変異に限定するのではなく、科や目、綱までの変化や進化を説明する理論としたのは拡大解釈だったと考える。ラマルクの再発見と評価はエルンスト・ヘッケルにあると解説にあるので、後世のドイツ人博物学者にして自然哲学者は困ったことをしてくれたものだ。
 そういう誤解のうえに建てられたラマルク像はこの本を読むことによって壊される。ダーウィンのような「革命的」なアイデアはこの本にはない。いるのは、常識的な動物収集と観察家。収集した情報を体系化する分類学の大家。観察した事実だけを記す事務屋。彼にかけていたのは、哲学の素養と観念的な思考。
 「動物哲学」第2部、第3部では、感情や意志の発生と機序を博物学の知識と語彙で説明しようと試みているらしい。こちらの意図は現在全く評価されていない。

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※ 池田清彦は「構造主義と進化論」でラマルクの説明をしていて、自分の読みよりもっと詳しい説明をしている。そちらも参照されたし。

<追記2021/1/23>
 キリンの首の長さに関する情報。

「キリンは、首と脚が長くて、他の動物には届かない高い場所の葉っぱを食べられる」とよく言われますが、野生のキリンが一番よく食べているのは「肩くらいの高さの葉っぱ」らしい。
「肩くらいの高さ」とはいえ、他の動物よりは高い所の葉っぱを食べてはいるそうです(図)。
が、背が3mもあれば「他の種が届かない葉を食べられる」は達成されるので、「あれほど背が高くなるメリットは?」については、まだ議論の余地がありそうです
ちなみに、生息地域の植物の平均的な高さが、キリンの肩ぐらいの高さらしい。低い植物が多い地域では、キリンが食べる葉っぱの平均位置も低くなり、背の高い植物が多い地域ではその逆とのこと。それでも、メスは3m、オスは4mちょっとと、少し首を斜めに下げた場所にある葉っぱを一番食べるそうです。
去年南アフリカのサファリでキリンを見たとき、「ほんとに肩くらいの位置の葉っぱ食べてる…」と思いました。