odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

アレン・スミス「いたずらの天才」(文春文庫) いたずらと犯罪との境。かつてはいたずらで済んだことが21世紀には犯罪になる場合がある。

 1953年初出の「The Compleat Practical Joker」は江戸川乱歩の中編「空気男とペテン師」1959年のネタ本になった。小説に出てくるプラクティカル・ジョーク(いたずら)のいくつかは、この「いたずらの天才」に出てくる。翻訳は1963年だったようで(文庫は1975年)、乱歩は英語版で読んでいたわけだ。
 著者はアメリカの作家、ジャーナリスト。市井のさまざまなプラクティカル・ジョーク(いたずら)のコレクター(新聞や雑誌の記事を切り抜いていたのだろう)。トゥエインやサーバーのような有名人もでてくるが、ほとんどは無名氏のもので、1800−1950年の話が収録されている。

 ここから連想するのは次の二点。
 いたづらの効能は権力や権威を無効化して、社会のヒエラルキーを一時的に停止したりひっくり返したりできる。そのことが、抑圧とか制限を受けている人々のうっぷんをはらし、日常を「活性化」することができる。なので、いたずら者は、文学に繰り返し登場し、いたずらをしてその結果ひどい目にあって、人々を笑いものにし、自分が笑われてきた。この国だと、スサノオとかイナバのウサギに始まって、一休や吉四六や彦一などの中世のとんち話になる。近代になると、ちょっと思いつかないな。西洋でもティル・オイレンシュピーゲルとかほらふき男爵がいて、神話や民話でも・・・。どんどん知識があいまいになるので、このくらいでおしまいにしておこう。いたづらものの文学における役割みたいな議論は、大江健三郎「小説の方法」(岩波書店)山口昌男「歴史・祝祭・神話」(中公文庫)に詳しいので、そちらを参照してもらうことにする。
 この本が以上のいたずら者の系譜から少しずれるのは、全部「実話」であるというところ。なるほどネットにある巨大掲示板に「実話にまさるものなし」という笑い話のスレッドがあって、ずっと愛読していた。無名な人の「実話」であるところに、上のようないたずらの効能効果がしっくりとする。東欧やソ連アネクドートが面白いのも、実在人物に対するあてこすりであった。この本でもアメリカの歴代大統領のいたずらが一つの章にまとめられている。リアルであるというのが、20世紀以降の近代で笑いやいたずらの「異化」効果を高めることになっているのだなあ。
 もうひとつの連想は、いたずらと犯罪との境について。すでに半世紀以上が経ったこの本のいたずらには、21世紀の現代には実行不可能なものがある。たとえば、馬車が使えないベニス市の道路に大量の馬糞を深夜にまいておくとか、町を大混乱にできるかというかけで名士の名を騙って飲食店に出前の注文をしたり警察消防などに出動の通報をしたりするとか、レストランで従業員をからかってパニック状態にするとか、馬車や荷車を私邸に持ち込んで庭をめちゃくちゃにするとか。あるいは自家用飛行機の操縦を素人に任せるとか、酒を飲めない人に強い酒を飲ませるとか。これらの「いたずら」は現在では全部、所有権や人権の侵害、他者危害などで犯罪になるだろう。同じ行為でも「いたずら」と容認されることもあれば、「犯罪」とされる場合がある。その基準は時代で変わる。かつては「犯罪」とされた行為が現代では容認されることもある(為政者や政権への批判であるし、街頭のデモンストレーションも)。21世紀では、ロールズの「公正」やサンデルの「共通善」アマルティア・セン「人間の安全保障」などが行為の良しあしを決める基準になるはず。過去のいたずらを懐かしむよりは、新しい「正義」に積極的に適応しないと。
 それがあってか、この本は現在販売されていない様子。