高校生の時に、だれもがそうするように、おれも詩を書いたり、読んだりした。自作のものはぜんぜんだめだったので、プロの詩人の作品をあれこれ読んだ。好みがはっきりしたときには、西脇順三郎と田村隆一の二人が気に入った。気に入ると、自作のはますますダメに思えて、大学生になってからは書くのを止めてしまった。
そういう読書の流れで、この詩集を読んだ。高見順はこれしか知らない。なにしろ高校生のときだ、まったく面白くなかった。作者は1963年に食道がんにかかって、切除手術をうけ、人工食道をつけたのだった。その治療中に病室で書いた詩を集めたもの。体力が衰えていて、十分な推敲をできなかったものがあるらしい。ある程度まとまったところで、雑誌に発表され、反響が大きかったのか、同じ時期の作品も集めて1963年に単行本になった。反響の大きな理由は推測するに、闘病体験(とくにガンの)を記録して発表するのが珍しかったからだろう。明治中期には中江兆民と正岡子規の闘病記がでたが、高見のはそれ以来ではないか(と調べもせずに言い切ってしまう。たぶん間違っているので、書いてあることが正しいと思い込まないように)。
あいにく高校生の時に読んでも、今回読み直ししても、この人の詩には共感できなかった。推敲が足りないのか、もともとそういう言葉の選び方なのか、冗長で、説明が過ぎて、余計な言葉がたくさんある。素人がいうのは申し訳ないが、いくつもの詩でここを削ればよいのに、この句はない方がよいのにと思い、そうしても詩想が生活と感情に密着しすぎていて、生活感想文の域をでないなあと思う。詩よりも、高見順は56歳でガンを発症、58歳で病没しているほうに興味が向かう。当時の人々は若くして亡くなったのだなあ、と再度嘆息した。堀田善衛「誰も不思議に思わない」(ちくま文庫)を参照。
まあ、おれは「自然は美しいなあ(それに抱かれたいなあ)」「生きていること自体に感謝」「ここでの苦悩が未来の幸福に」というような感情や思想に共感を抱かないのもあるけど。そのうえ、体にがたがきて、これまで生きてきた時間よりも死までの残り時間が短い年齢になった自分からすると、作者のおかれた状況と感情は近しいはずなのに、そうなれなくて。
気になった詩(気にいった詩ではない)がひとつある。「心の部屋」というタイトルのもの。全部を引用してみよう。
「一生の間
一度も開かれなかった
とざされたままの部屋が
おれの心のなかにある
今こそそれを開くときが来た
いややはりそのままにしておこう
その部屋におれはおれを隠してきたのだ」
すでに書いたように、片端から添削したいと思うし、詩想がどうにも好みに合わない。それはおいておくとして、ここに書かれた<おれ>が気になる。というのは、自分は「とざされたままの部屋」にある「おれ」という観念を持っていないのだが、そのような「とざされたままの部屋」にある「おれ」こそ20世紀の日本文学がずっと「問題」にしてきたことだと思うのだ。たぶん19世紀の人だと、隠された「おれ」とはなんのこっちゃと思うだろうし、21世紀の文章だとそのような「おれ」はいないか、いたとしても問題にはしていない(ように思える)。でも、高見が「その部屋におれはおれを隠してきたのだ」と書くことで、20世紀の文学が問題にしてきたことがよく見通せるように思った。そういう隠された「おれ」を暴くことが、漱石や藤村から、私小説作家から、太宰や三島から、戦後文学(野間宏、武田泰淳、大岡昇平ら)、そのあとの世代にまで、ずっと意識されていたのだった。
そういう発見の鍵を得られたので、この詩には感謝。