著者のことはほとんど知らない。高校生の時に唯一の小説「雲は天才である」を読んだが、ピンと来なかった。
石川啄木「雲は天才である」(角川文庫)
それ以外は読んでこなかった。それは短歌をどのように読めばよいのかわからないから。もちろんいくつかの短歌は知っている(たとえば天声人語あたりに引用されるようなものは)。でもそれだけ。なので、著者の生涯もよくわからないし(関川夏央・谷口ジロー「坊ちゃんとその時代」に登場していたなあ)、彼が何に関心を持っていたかも知らない。
なので、「一握の砂」「悲しき玩具」は著者の情報を抜きにしたテキストとして読むしかない。名無し(に等しい)著者が連作短歌をのこした。どうやら20世紀の初めのものらしい。という程度の情報のうえで。
さて、この連作短歌から見えてくるのは、20代から30代と思しきひとりの男性。貧乏暮らしが続いているようで、暮らしは苦しい。仕事も長続きしなかったのではないかな、いろいろ不満を持っていて、自宅に戻ってはため息をついている。あんまり人付き合いのよいほうではなく、むしろ引きこもり気味といえそうだ。といって家に何ごとかあるわけではなく、がらんとした部屋の中でため息をついている。女性にはもてないようであるが、性欲は強く、はけ口のないことに懊悩している。もしかしたら当時は残っていた娼館に出入りしていたのかもしれないが、それもまた鬱屈のタネになる。なんとも閉塞感漂う生活だ。その鬱屈というか閉塞感を打破するものとして、当時紹介されたばかりのアナキズムや社会主義思想に共感していたかもしれない。ただ、人付き合いの悪さとか引きこもりがちな性格は、路上の運動につながることができず、それもまた彼の自信喪失につながっている。(追記:自身喪失とタイプミスをしていたが、それでも意味が通じそう。)
この主人公はたぶん頭がよい。自分の置かれた現状やその原因はよく理解している。なぜ自分が貧乏であるのか、なぜどん底から抜け出せないのかはわかっている。でも、そっから脱出ないし解放されるには、彼の高いプライドが邪魔をする。熱意をもって仕事に取り組むとか、勉強を頑張るとか道はあるのに、それをしない。努力すること、知識を得ること、そういうチャンスを増やすために体を動かさないのだよな。かわりに手のひらを眺めたり、蟹と戯れたり。
そうなる背景には、主人公の自殺念慮とか自殺願望みたいなのがあるためかしら。この世界や社会にコミットするのがおかげですごくハードルの高いものになっている。必然的に、引きこもりになって、夢想にふけり、自己憐憫の甘い罠を周囲に張り巡らしたり。怠惰でありながら、むら気で、ときに衝動的で軽率な行動をとり、ひどい失敗に落ち込んでしまう。やっかいな性格をもっているものだ。
のちには結婚して子供もできたようだが、家族との関係はあまりよくないように見られる。妻のことにはほぼ無関心、子供といっしょにいることはめったにない。むしろ故郷や不在の母の方がきになる。のちに、大病をして入院したようで、そのときには看病する者のありがたさを得心したようだ。
「一握の砂」「悲しき玩具」の主人公をプロファイルするとこんな感じか。短歌は感情(とくに恋愛)を詠むのに適した形式だとされる(堀田善衛「定家明月記私抄」)。でもここには恋愛はなくて、主人公の孤独、悲哀、喪失の感情が語られる。全編ほぼ一人称で、自分の感情と周囲のできごとばかりが描かれる。周りに人がいそうなものだが、彼ら/彼女らは視界にはいらず、二人称の呼びかけがまったくない。時折現れる他人は第三者の遠い他人で、彼の感情を投影する対象にはするが、共感をもったり働きかけをする目的ではない。
この主人公の感情や性格は自分に似ていて、それだけにプライドにしがみつき、他人に敵意や嫉妬を持ってばかりの主人公には腹が立ってくる。まあ、この国の20世紀初頭の文学は、こういう孤独や悲哀や喪失の感情を持つ「主体」を見出すところから始まったのだろうが、社会とか世界にコミットする道を見出さないで内面に沈潜することになったのはよろしくない。「主体」や内面の呪縛から解放されるのは、戦争体験を持つ戦後文学者以降。
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