odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

大江健三郎「個人的な体験」(新潮文庫)

 27歳4カ月の鳥(バード:あだ名)は鬱屈していた。妻の出産が思いかけず難産であり、赤ん坊に異常があると知らされたから。町の産婦人科はただちに大学病院を紹介し、そこで赤ん坊が「脳ヘルニア」であることを知る。手術をしなければ命が危ういし、成功しても「正常」に育つかどうかわからないと告げられる。恐怖に襲われて、バードは病院をでて、大学時代の友人・火見子のアパートを訪れる。そこからおよそ一週間の地獄の遍歴。
 
 バードの鬱屈はこういうところにある。すなわち東京の大学の英文科で大学院に進学していたが25歳のとき、ふいにアルコール(ウィスキー)に耽溺し、およそまともな研究ができないようになってしまったのだ。俊英も退学を余儀なくされ、結婚していた妻の父である指導教授の紹介で予備校講師になっていた。仕事に情熱を持てず、義父と義母(前記指導教授夫妻)との折り合いも悪い。そのうえ、父が自殺しているとか、高校生の時に徘徊していう気狂い(ママ)を追跡して彼の縊死死体を発見するなど、死者へのオブセッションは深い。彼の希望はアフリカにいくこと(チュチュトオーラ「幽鬼の森における私の生活」にインスパイアされて。現在は、エイモス・チュツオーラ「ブッシュ・オブ・ゴースツ」ちくま文庫とタイトルを変えて出版されている)。彼のいる「いま・ここ」がとてもひどく、しかも自分で変格できる自信がない(アルコール耽溺をコントロールするのが精いっぱい)ので、彼はアフリカの夢を見ることに執着している。それが赤ん坊の出産、さらには赤ん坊の異常の発見によって恐怖に転化する。この事態を乗り越えられないとき、彼は死の念慮に囚われて回復不可能になるのではないか。道を失って森を迷い込んでしまったのだ。(このあたりは次作「万延元年のフットボール」の「私(蜜三郎)」に継承される)
 彼がすがるのが、火見子。英文科のときから不思議な個性をもっていたのだが、結婚したあとバードの友人でもある彼女の夫も縊死を遂げている。それから、彼女は夫の義父の援助を頼りに、アパートに一人暮らしで、複数の性的友人を連れ込み、深夜にMGで都内を疾走している。バードが彼女に思い入れがあるのは、学生時代に彼女のほぼ唯一の友人であったことと、「強姦」をしていること。バードにとってはまだ「自由」であった過去の象徴であるわけだ。バードは現在の自分の困難や恐怖を逐一火見子に話すが、妻や義父義母と異なり、バードを批判することなく受け入れる(コーチングのテクニック)。バードはそこで「自由」を感じ、火見子の提案するアパートを売り払って、その金でアフリカに行くことに心動かされる(赤ん坊が死んだら妻からは離縁されるといわれている)。
 小説は、バードが病院と火見子を行き来しながら、現在の地獄と過去の性的ユートピアを遍歴する。その間、バードは決断できず、止めたはずのアルコールをがぶ飲みして予備校で醜態を示し、職を止めなければならなくなる。こうしてどんどん追い詰められ、嬰児の死亡ないし安楽死を夢想している。火見子の提案で怪しげな市立病院に赤ん坊を転院させ、かつて裏切った友人の経営するゲイバーでふたたび酒を口にしようとするとき、彼に天啓が訪れる。
 バードの決断がどうであったかは、ここでは書かない(小説発表時には三島由紀夫他からの非難があったという)として、いくつかを引用すると、

(バード)個人的な体験のうちにも、ひとりでその体験の洞穴をどんどん進んでいくと、やがては人間一般にかかわる真実の展望にひらける抜け道に出ることのできる、そういう体験はあるはずだろう?(P184)
(火見子)人間に関するかぎりまったく不毛な苦しみはないと思うわ(P184)

 そういう認識を重ねることから「逃げ回り続けることを止める」に至るわけだ。この認識はそのまま作家の決意となったのだろう。逃げ回るのは障害を持って生まれた子供や妻、あるいはアルコール耽溺などの現在の諸問題に対してで、彼の決意はアフリカという未来と火見子という過去を断ち切ることに現れる。現在に職業人として生き、他人を手段ではなく目的として生きようということだ。のちの小説はまさに「個人的な体験」から「人間一般にかかわる真実の展望」を見出そうとする試みとなったのだった。
 とはいえ、この小説を共感と感動の内に読んだかというとそうではない。バードも火見子も指導教授も優雅で金のかかる生活をしていたなあというあたり。小説は1964年(東京オリンピックの年)に書かれているが、火見子はバストイレ付きのアパートにベッドを持ち込み、輸入車MGを乗り回す。これは当時の独身者用住居としては破格の高級アパート。指導教授はバードに未開封ジョニー・ウォーカーをプレゼントする。いまでは普通酒の扱いの銘柄だが、固定相場の当時としては海外旅行のおみやげとしては最高級品だった。バードもバックスキンのコートをもち、ワンシーズンで惜しげもなく捨てる。初読は書かれて15年を経過してからの大学生のときだったが、彼らの生活は自分のそれよりはるかに上だったからなあ。赤ん坊をどうするかの決断以外でのバードの鬱屈や恐怖、火見子のオブセッションが自分の内に入ってこなかった。
 そのうえバードが過去のアルコール耽溺や火見子との性行為などにほぼ無反省であること。他人(火見子や菊比古など)を現在の自分を慰めてもらうための手段にしているのも。一方で、バードを非難する妻には距離を置き、自分が攻撃にさらされるのを回避する。なるほど、バードにおきた危機は深いものである。それは理解できるとして、普段の生活は放縦に過ぎるのじゃねえ、金の調達に苦労することがないのはいいご身分だねえ、義父や妻や火見子に甘えんなよ、と読んだのだった。まあ、おれが子供をもっていないので、赤ん坊に関する問題が身に沁みないせいもあるかもしれないが(若者に金のなくなった21世紀の10年代では、同じ問題に遭遇した若い20代の主人公はバードのような逃避ができるだろうか)。
 今回の再読では、主題よりも技法に注目。プロローグで、バードが不良少年たちと路上でけんか騒ぎを起こす。本筋になってからは一切登場しない彼らが、エピローグで登場し、それがバードの成長(過去の諦念、未来の憧憬をあきらめ現在に責任をもつこと)を示す働きをもつ。あるいは病院と火見子を交互に行き来。赤ん坊の容体の悪化に連れてバードが煩悶、恐怖するさなか、もっとも容体が悪くなった夜に、しかも妻から離縁を切り出され、予備校を辞職するという最低な状況になったときに、火見子と性交するという対位法。火見子はダンテを案内するウェルギリウスであるのだが、アフリカという「天国」に導けない。かわりにブレークの詩を想起させ、結果として自分から離れさせる決断に導くところ。そのような構成のうまさ、細部の書き込みのたしかさ、そのような技術にみとれました。29歳でこの技術をあやつり、深い主題を扱う。なんともすごい作家だ。