著者のよくある技法である「はた迷惑な闖入者」の物語。
20歳になるまえの大学生で小説が認められ、そのまま職業作家になる。必ずしも平穏無事にあるわけではなく、書斎に閉じこもり気味な生活がストレスになり、22歳ころに書いた政治的小説でバッシングと脅迫を受けるようになり、ヒポコンデリアが重症化する。そうすると、ますます苛立ちと退廃が進み、書斎から出られなく。みずからの死と、他人の悲惨な死がオブセッションになって覆いかぶさり、恐怖と不安でいたたまれなくなる。運動不足。過食。不眠。そこから逃げ出すためのアルコール耽溺。それがスパイラルになって、ますます生活の荒廃がひどくなる。婚約者がいて、結婚式を挙げる準備が進んでいるのだが、それを実行することもできない。死のみならず、自宅を襲撃する脅迫者もいて、暴力に怯えてもいるのだ。これが、語り手「ぼく」に起きている状態。
そこに斉木犀吉(さいきさいきち)という4歳年下の若い男が、「ぼく」の家に闖入し、「ぼく」の生活をひっかきまわす。行動と饒舌なおしゃべりにおいておよそ首尾一貫したところがなくて、現実的なビジョンもなく、社会に適応する気もない。「ぼく」の観察によると自己本位、独善的、自分以外の事物に関心を示さないというこの男に、「ぼく」は魅かれ、彼のむちゃくちゃな提案に疑義を示すことなく賛成し、無軌道な行動にのっかっていく。そうなるのは、斉木犀吉が「ぼく」とおなじように恐怖心と闘いながら生きている人間であり、その戦いのパフォーマンスが戦えない「ぼく」への批判であり、自分の落ち込んでいるヒポコンデリアから脱出する道筋になるかと見えるため。
小説は全5部。第1部は、(小説時の)現在から2年前、「ぼく」が大学生、斉木が18歳の時の出会い。エジプトにいってナセル義勇軍になりたいという夢をもち、「ぼく」の祖父から金をもらって出帆し、失踪するまで。第2部は上記の退廃に陥った「ぼく」のところに斉木が自分の性的共同体を連れてきてから。卑弥呼という18歳の娘、雉子彦という18歳の少年。金奏(キムタイ)という18歳のプロボクサーがメンバーで、彼らは性的に自由な関係にあり、犯罪をおかす(外車を盗むとか万引きするとか)ことを躊躇しない。金奏が日本バンタム級のチャンピオンになる試合がこの共同体のもっとも輝いた日。この共同体も斉木の気まぐれで解体する。***鷹子という弱電機メーカーの社長の娘35歳と結婚したから。卑弥呼は失踪。雉子彦は輸入雑貨店の店長に収まり、金奏はフィリピンの世界タイトルマッチでKO負けをして失踪する。第3部は、斉木と鷹子の「結婚」生活。鷹子は斉木に演劇の才があると思い込み、ロンドンやパリで演劇の研修兼新婚生活を送る。そこに遅れて「ぼく」がいくと、夫婦の間に亀裂が入り、鷹子が自傷して流産してしまう。第5部は、斉木の最後の結婚生活。鷹子を離縁したあと、同居していたイタリア娘と結婚する。白血病で衰弱した暁(という青年)を二人が運転するジャガーでひき殺してしまう。狂乱のイタリア娘とヨーロッパに戻り、流浪のはてに自殺してしまう。
「ぼく」の恐怖が比較的観念的妄想的なものだとすると、斉木と彼のグループの恐怖はもっと肉体的なものだった。金奏というボクサーはガラスの顎の持ち主で、そこをねらわれてKO負けしたことが恐怖。暁という広島出身の青年は体内被曝者。白血病の発症で原爆病院に入院することを恐れる。斉木の恐怖もまた自分の肉体の損壊に関係している。この恐怖から離れているのは、鷹子や卑弥呼らの女性。それでも妊娠、出産、加齢などをめぐるオブセッションや恐怖は共有している。これは多かれ少なかれ読者も持つもの。まあ、普通は家族や職場や学校や他の共同体での日常で恐怖は隠蔽される。というか意識しないで済むし、具体的な問題が起こればさまざまな支援を受けられる。そこにおいて「ぼく」や斉木の恐怖が増幅されて、アルコール耽溺や性の饗宴などに逃げなければならないのは、彼らが心置きなくコミュニケーションをとったり、共同の仕事をするような仲間、知り合い、友達などがいないせいだ。
2017/01/24 大江健三郎「日常生活の冒険」(新潮文庫)-2 1964年に続く。