odd_hatchの読書ノート

エントリーは2800を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2022/10/06

大江健三郎「ヒロシマノート」(岩波新書)

 原爆投下から20年にもなる1964年。政府は被爆者問題や支援に無関心で、通常の生活保護でしか対応しない(それでは不十分)。原水爆反対運動は二つに分裂しつつあり、多くの国民も無関心になろうとしている。一方、健康と思われた人にも原爆症の症状がでて有効な治療を受けられずに急速に悪化して死亡するケースがある。胎児や幼児期に被爆した人が成人しつつあり差別や体調不良に悩むようになる。多くの被爆者は収入が乏しく、貧困を強いられている。そのような時期に、作家は広島を訪れ、現状をレポートする。

プロローグ広島へ 1965.04 ・・・ 1963年夏の第9回回原水爆禁止世界大会に参加することから始まるヒロシマと原爆に関わる旅。原爆症で苦労する人、外の無関心や勝手な意味付けに怒る被爆者、無策の政府、誹謗中傷をぶつける「醜い日本人」。
広島への最初の旅 1963.08 ・・・ 1963年8月5日から6日にかけての世界大会のレポ。決議文の「いかなる国(の原水爆には対する云々)」の文字を巡って紛糾。このときは広島原水協が主催することになったが、のちに原水禁原水協に分裂した。その政治的な騒々しさと対比されるのは、前日に亡くなった娘さんや原爆症や差別で苦しんでいる人々、懸命に治療し患者を励ます医師の姿。
広島再訪 1964.08 ・・・ 被爆後約20年たつ年になって、「《原子爆弾放射能の影響によって死ぬべき者はすでに死に絶え、もはやその残存放射能による生理的影響は認められない》という一九四五年秋の米軍側原爆災害調査団のあやまった声明が世界にひろがっていったあとの十年間の沈黙」を余儀なくされ、差別と偏見、貧困にある被爆者。末期症状にならなければ医療補助を受けられず、二次被爆者は行政の承認を得るのも困難。死に瀕した被爆者が(反戦と核放棄)の志を述べ、忍耐強く説明と説得にあたる。
(この経験から「持続する志」の言葉が生まれたのだろう。また被爆後20年たって結婚や出産で不安や恐怖を感じる若い女性がレポートされる。彼女らの不安や恐怖、彼女らに向けられる差別と偏見は311後の福島の女性に見られたものに極めて似ている。)
モラリストの広島 1964.09 ・・・ 被爆後20年間の広島の被爆者について。激しい貧困と闘病、家族の離散、行政支援の欠如など。そのような悲惨において、なお生き延びる人々。作家は彼らの人生に「モラリスト」を見出す。そして、周辺の人々、政治の無力感のカビに腐食された姿を見る。
(復興支援や経済成長からもれ、セイフティネットの網の目から零れ落ちた被爆者。とくに子供や孫を奪われ、孤独になった老人の姿がすさまじい。彼らの姿は同時代の公害被害者に重なり、この国の人々と政府、行政の無関心、冷笑をあぶりだす。)
人間の威厳について 1964.10 ・・・ 日本はオリンピック開催で「うまく生き残り、さいわい放射能障害もない誰もが、広島で死んだ人たちと、死にむかって苦しい闘いをつづけている人たちのことを忘れようとしている」。一方で、「広島で生きつづける人びとが、あの人間の悲惨の極みについて沈黙し、それを忘れ去るかわりに、それについて語り、研究し、記録しようとしている」。「これはじっに異常な努力による重い行為であ」り、そこに人間の威厳の本来の意味を見いだせる。
(オリンピックの最終聖火ランナー敗戦の日に広島で生まれた人であったが、その人選にも「原爆を思い出して不愉快」という反対意見があったことに驚く。)
屈伏しない人 1964.11 ・・・ ヒューマニストと目される人々(アメリカの施政者や軍人たち)が人権回復の目的で投下を決めた原爆。そこ現出したおよお非人間的な「地獄」。それは人間を屈辱と絶望によって屈服させる大きな力をもつものであるが、屈服しない人たちがいた。たとえば、十数万人の被災者を前に自身も被爆しながら治療を開始した数百名の医療従事者など。彼らの献身的な治療とちょすあで次第に原爆症放射線障害の内実が明らかにされていく。
ひとりの正統的な人間 1964.12 ・・・ 1946年冬には楽観論が現れマスコミもあおったりした。しかし現場の医師による地道な活動が原爆症を明らかにする。そのような献身的な人々を「正統的な人間」と呼ぼう。被爆後20年たち、2世代目の人々の被爆症状が報告されるようになり、差別の拡大や不安による動揺などが被災者とその係累に現れる。
広島へのさまざまな旅 1965.01 ・・・ 被爆20年たって新たな問題となるのは、幼児や胎児出会ったときに被爆した人に症状が現れること。貧困のうえに体調不良のために労働せざるをえず、疲労と絶望の内に無くなる若者が続出している。しかもなかには将来の見通しが立たないために自殺する人も。政治家にはもう広島は終わったと考える人もいて、被爆者への救済が満足に行われるとは思えない。忘れないこと、手を差し伸べることの重要さについて。
エピローグ広島から 1965.01-05 ・・・ 被曝の体験を語る言葉。そこにある「どのような沈黙よりも、もっと苛酷に徹底した沈黙、それは人間が発する《言葉にならないうめき声》」。核配備、核武装の進む世界において「正気」を保つために、被爆者に連帯しよう。


 「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」が1995年になってようやく制定されたのに象徴されるように、この国は被爆者を救済、支援することをできる限り避けていた。このレポートにも被爆症状を研究する機関は民間であり、行政支援は行われていない。それでもようやく制度ができるようになったのは、被爆者による粘り強い運動であり、それを応援する世論が形成されたことによる(その形成までにものすごく長い時間がかかったのは、我々の弱いところ)。というような大きな状況を把握しているわけではないので、ここまで。
 初読は1980年のときだったが、そのときでも内容は自分には衝撃的だった(とおもう)。書かれた時から15年を経ても、支援や救済の仕組みが整わず、差別の感情が社会であらわになることを知ったから。もうひとつは、運動をすること自体が目的になると当の被害者、当事者が放置されて、支援や救済から遠のいてしまうこと。結果として、過去の被害は知られるようになり、死者を追悼する気運はあっても、現在において被害が継続し差別を経験し苦痛や苦悩を持っている弱い人たちが見過ごされるようになる。このようなありかたに、なんとも言いようのない気持ちの悪くなるような、胸が締め付けられるような気分になったものだ。そのうえ、同じことが公害被害者などこの国のさまざまな差別にあっている人たちに起きているのも同時に知り、この国のあり方にうすら寒くなる、というか嫌悪の気分にまで至ったのだった(とはいえそのあとバブルの時代にはいって、仕事ばかりの生活になり、すっかり縁遠くなってしまったのだ)。
 そのときに、作家の方法はともあれ被害者、被爆者に寄り添うこと。彼らの言葉を聞くこと。これは実はイエスにも見られたことで、なるほど個人が問題の全的な解決を図ることはできなくとも、寄り添うこと、彼らの言葉を広げることで、社会に変化をもたらすことができる、すぐさまの効果は現れずとも(そのほうがよいが)、ある程度の時間を書ければセイフティネットができて支援する網の目ができるようになる。そういう長い目でみた活動につながる。実際この本はよく読まれて、当時のベストセラーに入っていた(まあ、読むことがコミットしたつもりになってしまって、したり顔で何ごとか言い出したりするので、注意は必要>俺)。
 当時著者は30歳目前。身辺にいろいろなことがあって、転換の模索中。ここでも、最初の章がメイラーのノンフィクションに見た書き方をしていて、ほほえましくなった(「厳粛な綱渡り」にメイラーのことを書いたエッセイがいくつか収録されている)。