odd_hatchの読書ノート

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大江健三郎「万延元年のフットボール」(講談社文庫)-2 村の余所者家族がもつ自己破壊、自己処罰的な傾向。瓦解寸前の家庭の鬱屈。

2017/01/17 大江健三郎「万延元年のフットボール」(講談社文庫)-1 1967年の続き。
 

このエントリーでは根所家にフォーカス。根所というのは奇妙な名前で、どうやら村の権力には関係しない、むしろ差別される側の一族だったようだ。蔵屋敷をもつのは、たぶん楮かなにかの生産と卸を一手に引き受けていたためだが、それは江戸時代に新たに村に入った新参者。そのために経済では頭が上がらずとも、政治と文化では余計者にされていたのだ。その一族は村の危機で、指導者とスケープゴートの役割をはたしてきた。前エントリーで見たように、曽祖父の代であり、父母の不名誉であり、長兄の死亡であり、妹の自殺。そして残された兄弟は村を追い出され、根無し草として生きている。
 まず兄・蜜三郎の場合。英語の講師であるが、あるとき子供の投げた石があたって右目を失明。彼の親友は奇妙な方法で自殺しており、一族のさまざまな奇行が自分にもあると妄想していて、自閉的な傾向を持っているそのうえ結婚した妻・菜採(なつ)との間の最初の乳児は障害を持っていて今は施設に預けられている。妻はアルコールに耽溺して、家事を放棄することもある。こういう瓦解寸前の家庭があるのだ。当時、蜜は27歳(たぶん作家の実生活の反映)。
 このような閉塞して鬱屈した状況にあって蜜と菜採は生活を変えたい希求があっても、行動に移せない(蜜は穴ぼこに潜り込んでしまうし、菜採は酒を飲む)。そこに鷹四と仲間が来て、若さと行動でもって彼らに影響を及ぼす。といっても蜜は鷹に反発するし、菜採は鷹の周囲にいるしで、うまくいかないのだが。鷹のプロジェクトが最高潮を迎えたとき、菜採は鷹の子をはらむ。そのあと離婚の話が出るものの、鷹四の自殺ののち「新生活」への出発のきっかけとなる。
(この夫婦の物語は「個人的な体験」の再話。私立大学の英語講師かアフリカ派遣動物採集隊の通訳かという選択でアフリカを選ぶのは「われらの時代」につながるか。まあ国外に脱出するという選択が「新生活」の希望であるが、見通しの不確かなものであるのは変わらない。彼らがうまくいくかはまあ読者が考えることだ。)
 弟・鷹四は60年安保のおそらく学生運動の経験者。このあとアメリカにわたり、一時期行方が分からなくなっていた。帰国すると、都内でティーンエイジャーである星男(自動車修理工)と桃子(無職)を手下にし、アメリカ滞在中に知り合った「スーパーマーケットの天皇」に蔵屋敷を売る交渉に成功する。この男も非常に屈折していて、学生運動に参加→挫折→演劇参加→放棄など行き当たりばったりの無軌道な生活としている。彼にあるのは強い民衆蔑視と大衆嫌悪。組織した村の青年たちにも侮蔑と嫌悪を隠さない(まあここらへんは作家の意識にもあるのかなあ。青年会にしろ村人にしろ固有名を持っている人物は一人もいないのだ。固有名を持つのは村の余計者や除け者ばかり)。
 この人も鬱屈していてさまざまな矛盾を持っているが(それはこの一族の特徴)、蜜とは異なり行動的(衝動的に判断して不利益になる行動をするのは蜜も同じだが)。この行動の力になっているのが、彼の強い性欲。アメリカで泥酔して黒人娼婦を抱いたり(性病にかかる)、村の娘らの前で勃起した男根を見せたり、蜜の妻を抱いたり、村の若い娘を強姦しようとしたり。時々、予告なく噴出する性欲が彼を引き回し、状況を悪化させる。この男の中では性はとくに抑圧するものではないが、1960年代の半ばにおいては性欲は権力の抑圧に対抗する力に見えた。生の衝動の力や破壊性が蜂起や変革になりうると信じられたのだ。ただ制御しがたさがTPOをわきまえないので、社会もろとも自分を破壊するように働く(このテーマは「われらの時代」や「性的人間」の再話。なにより、鷹の性衝動は「セブンティーン」の少年と同じ方向にある。向こうは衝動ののちの不能が政治運動の原動力になったのだが。あと、鷹四の経歴は「懐かしい時への手紙」のギー兄さんに繰り返される。
 自己破壊、自己処罰的な傾向は根所家のメンバーにあって、曽祖父、父と母、長兄や妹にもみられる。この一族は「大窪村」では中心にいないところに注意。江戸時代に新興産業をもたらし、村の富を増やすことに貢献したが、村の歴史の本流にいないことで、労働では大事にされる(村の農家に下請けを出す。根所家の権力を示すものであり、下請けになるのは名誉になる)のに、村の祭儀などでは無視される。ばかりか「牛鬼」によって、村人が家を破壊したりすることさえある(仮装した「牛鬼」はだれかはわからないうえ、祭りの狼藉は責任を取らされない)。新参者であり富をもたらすという正の価値は、村社会では差別の対象になる負の価値を併せ持ち、村の危機の際には責任と穢れを負いつけられるスケープゴートにされる。

2017/01/13 大江健三郎「万延元年のフットボール」(講談社文庫)-3 1967年
2017/01/12 大江健三郎「万延元年のフットボール」(講談社文庫)-4 1967年に続く。