odd_hatchの読書ノート

エントリーは2800を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2022/10/06

大江健三郎「叫び声」(講談社文庫)

 冒頭に「人間みなが遅すぎる救助をまちこがれている恐怖の時代には、誰かひとり遥かな救いをもとめて叫び声をあげる時、それを聞く者はみな、その叫びが自分自身の声でなかったかと、わが耳を疑う」とあって、小説の主題が提示される。高度経済成長があって、政治的にも安定している時代(1963年:ベルリンの壁キューバ危機などがあっても、この国は蚊帳の外にいられた幸福な時代)にあって、このような叫び声は聞き取りにくい。それでも作家は自分自身の声であるような他者の叫び声を聴こうとする。

 まず「黄金の青春の時」を回想する。叫び声を聞き取りたいという欲望を持つダリウス・セルベゾフは、日本の不幸な若者を3人選んで自宅に住まわせ、「友人たち(レ・ザミ)号」を建造して4人でアフリカに行こうと計画している(なぜアフリカというとナセルのエジプト革命が進行中で、スペイン市民戦争のような民主主義革命の夢を見て、参加したいと願ったからだ)。集められたのは、梅毒恐怖症にかかっている「ぼく(語り手)」と、黒人兵士と日本人女性の間に生まれた茶褐色の肌を持ち、17歳にしてすでにアルコール耽溺にかかっている「虎」と、朝鮮人の集団から放逐されオナニイの魔でありモラリスト(「日常生活の冒険」の斉木犀吉的な意味での)である「呉鷹男」。彼らはセルべゾフの手当てで暮らし、ジャギュアを乗り回す。ここらの「黄金の青春の時」の暮らしぶりは同時代の「太陽族」「みゆき族」などのパロディ。親愛の共同体ができて、外部の目を遮断して、好き勝手なことをしているわけ。で、トラブルが起きても、若いからと見過ごされるというところに甘えているが、彼らは気づかない(ただし、かれらはそれぞれ就寝中にわめき、泣き声をあげるなど、恐怖心にまみれた日常からは逃れられない)。
 この親密な共同体はセルベゾフの少年拉致監禁事件で終了する。セルベゾフが国外退去した後、彼らはたちまち金を使いはたし、困窮に陥る。古ラジオを回収して密輸する計画は大人の詐欺にあい、銀行強盗を夢想して茶褐色の肌をもつ「虎」は米軍のコスプレで基地前でふざけていると、脱走兵と間違われて米軍MPに射殺される。「ぼく」は重度の肺結核にかかっていることが分かり強制的にサナトリウムに収監される。残された「呉鷹男」は家を捨て、朝鮮人集落に戻るが、そこでも排除され、ドヤ街を転々としなければならない。ここで見えてくるのは、高度経済成長によって多くの日本人は定職に就け、給料が年々上昇し、かつてあこがれだったものが安く手に入るようになり、殺風景な敗戦後の家や部屋が物に満ちていき、「中流」や安定の感覚を持つようになれた。しかし、その富裕化への機会から排除される存在があって、彼らには経済成長の恩恵が一切行き渡らない。しかもそれはこの国のマジョリティには見えなかったのである。それが「黄金の青春の時」を経験した3人。すなわち占領軍兵士との間の「混血」でり、在日コリアンであり、重度な疾病の罹患者である(のちの小説ではこれに原爆被災者が加わる)。このような属性を持っているうえに「若い」という理由で(「ぼく」をのぞき彼らは未成年)、彼らは経済からも政治からもコミュニティからも排除される。この転落過程で、3人(セルベゾフを含めると4人)はばらばらになる。
 一人社会に残された呉鷹男は「新しい自己満足の方法」を獲得したいと考え、「おれひとりの王国」「おれひとりの世界の存在」を確認したいと願う。そこで表層に浮かぶのが「強姦殺人」の夢。その非社会的行為、自己満足の行為を成し遂げることで、自分の桎梏から解放されると考える。卒業した定時制高校の屋上で女子高生を見たとき、彼女に誘われたかのように実行する。そのあと死体の上にしばらく座ったとか、新聞社ほかマスコミに通報してしゃべりまくったとか、興味深いエピソード(現実にそのような事件があった)があるが割愛。モラリストしてさまざまな観念に定義を与えるという作業のすえに、性的な冒険をして、自己破壊に至るわけだ(その点は「政治少年死す」「性的人間」とあわせたトライアングルになっていて、それぞれの冒険と自己破壊の欲望の形態が異なる。読み比べられたし)。
 一人生き延びた「ぼく」はセルベゾフの誘いにのって、パリまで出かけ、途中で梅毒恐怖からくる不能を克服する。「ぼく」ひとりは内面の「叫び声」を消すことができたようだが、死者たち(「虎」や「鷹男」)の叫び声は消えない。「ぼく」が生き続ける限り、彼らの「叫び声」は社会の共感が得られずともずっと残る。そのような記憶こそが死者を悼むことになる(というのは次の「日常生活の冒険」でも繰り返される)。
 パリにいったのはサナトリウムを退院してからですでに「ぼく」は25歳。「涙がにあう年齢ではない」という青春時代の喪失を感じている年だ。初読のときは25歳前だったから、この述懐はピンと来なかったけど、初老で読み返すと、まだまだセンチメンタルだなと思う。実際、著者の小説の主人公がすでに青年ではない、大人でなければならないという自覚を持つようになるのは、さらに時間がかかる(「ピンチランナー調書」までは大人になろうとしない「モラトリアム(執行猶予)」を生きている語り手ばかり。大人の「責任」の自覚が生まれる主人公が現れるのは「同時代ゲーム」あたりから)。
 「ぼく」の一人称の語りが、「呉鷹男」の暴走を語る段になると三人称になる(「政治少年死す」もそうだった)など、書き方の首尾一貫性に欠けて、散漫なところが気になる。「恐怖心」の見据え方がまだ観念的だったのか、それとも図式的なせいか。語り手「ぼく」が傍観者に徹しているせいか。問題提起の鋭さと小説技術の齟齬。1963年初出。