odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

コナン・ドイル「シャーロック・ホームズの回想」(角川文庫)-1

 ホームズは汽車にのって郊外にでかけ事件を捜査する。商用自動車、公共バスなどない時代(代わりに馬車があった)に迅速に移動する手段は汽車が唯一。19世紀前半の産業革命は、イギリスの運輸に多額の投資を行い、それが全国の鉄道網になった。1880-90年代のホームズはそれを利用することで、軽いフットワークを見せた(たぶん同時代の名探偵よりも鮮やかで軽い)。また大西洋を横断する定期船も就航していて、片道1カ月はかかるとしても、人と物が頻繁に移動する。当然、犯罪者や訳ありの人も移動するわけで、彼らの挙動は探偵小説の恰好のネタになる。
 日本へのホームズ紹介は1899年が最初。全訳(とされるもの)は1916年(九鬼紫郎「探偵小説百科」金園社による)。これに熱狂した乱歩らが創作を始めたのは1920年代から。日本の鉄道網が充実し、民間利用が盛んになったのは1900年以降とすると、当時の若者はホームズ譚を同時代の風俗・習慣を書いたものとして読んだのではないか。

白銀号事件 Silver Blaze ・・・ 今度のレースの本命の馬が厩舎から逃げ出し、調教師が殺されていた。雨の夜、カレー煮を食べているところに不審者が厩舎を訪れている。調教師がでていったのを番犬を飼っている厩舎の者は誰も知らず、調教師はレインコートを脱いでいて、手にしていた手術用メスで足を深く切っていた。こういう手がかりだけを抜き出すと事態は明白なのだが、うまく文章に溶け込ませているので、そう簡単には真相にたどり着けない。プロットと書き方の勝利。傑作。近代競馬は1830年代に成立したというが、それから60年もたつとシステムは完璧に構築されていたわけだね。もともとはアッパークラスの道楽だったのが、賭けになることで(イギリスはかけ事が盛ん)、庶民の娯楽になった。

ボール箱 ・・・ クロイドンに住む女性のもとに、小包で男女の切り取られた耳が送られてきた。いったいなぜ? 「緋色の研究」の圧縮版で、冒険小説の趣き。ながらく翻訳されてこなかったが、これと光文社文庫にようやく収録されたとのこと(収録された短編集は「回想」「最後の挨拶」だったりで、版の違いがあるらしい)。事件の陰惨さに原因があると解説は言うが、筒井康隆「毟りあい」を持っているわれわれには特に衝撃的ではない。ひとえに小説のまずさに理由がある。

黄色い顔 The Yellow Face ・・・ 25才の未亡人の妻が突然100ポンドを要求する。しばらくすると、隣家に住人が引っ越してくるが姿を見せない。ときに窓から黄色い顔がのぞくのが見える。得体のしれない家になんと妻が出入りしている。狂おしいほど悩む夫はホームズに助けを求める。幽霊屋敷譚の変奏。女性や人種に厳しい偏見や差別がある時代に、夫の選択は心に迫る。こうでない決断をしたのであれば、この作品は残らなかった。

株式仲買店員 The Stockbroker's Clerk ・・・ 失業した証券会社の社員がある立派な会社に内定する。そこにもっといい条件で引き抜きたいという話が舞い込んだ。奇妙なのは誓約書を書かせたことと、内定辞退の連絡をさせなかったこと。いったいなぜ。ホームズ譚では、失業者に舞い込む好条件の求職案内はうさんくさいできごと。ああ、ここからチェスタトンは「奇商クラブ」1905年を思いついたのだろうな。

グロリア・スコット号 The "Gloria Scott" ・・・ ホームズ最初の探偵。学生時代の友人の祖父の様子がおかしいという。金の採鉱で小金をためた祖父のもとに粗野な船乗りがきて飲んだくれているのに、祖父は放置。ようやくでていったが、意味不明の手紙を見て、祖父は卒倒してしまった。ホームズの一瞬の観察でその人の過去を暴く慧眼は学生のころからあった。推理の見どころは暗号解読くらい。ここでは1855年からの冒険譚(その時乗っていた船の名がタイトル)の方が主題。たぶん船員による船の乗っ取りは実例があったのではないかな。老人は過去日本に行ったことがあるといっていたが、回想記の中では書かれていない。1858年日英修好通商条約後なら日本にはいきやすかったと思うが、この冒険譚の時間軸で行くのは難しいのではないかしら。

マスグレーヴ家の儀式 The Musgrave Ritual ・・・ 古い家を継いだ青年。執事が古文書を覗き見していたので、解雇したところ、二日後に行方不明になった。これがその古文書と学生時代のホームズに見せる。まあ、ポオ「黄金虫」あたりへのオマージュなのだろう。古い館の地下室に財宝があるというのはゴシックロマンスの定石。ストーリーがウィリアムソン夫人「灰色の女」に似ていると思ったが、ドイル作のほうが先。ホームズが探偵として自活できるようになった記念碑的事件で、「グロリア・スコット号」の3つあと。

 1894年にまとめられた短編集。
 冒頭に書いたこととあわせると、ホームズ譚は近代化が進んでいないと成立しない。産業革命による生産性の向上、技術発展による家庭生活の合理化、人口が流入して過密になる都市、整備された公共交通網、司法・警察などの国家治安システムの確立、メディアの発達(ここでは新聞)と教育の浸透・インテリ知識人の増加、こういう背景があって、犯罪に対する意識の変化(社会の不安をもたらすものとして排除し、しかし私的制裁を禁じることを共有など)があり、それを独立して解き明かす超人を求める。