odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

ヴォルテール「カンディード」(岩波文庫)

 フランス啓蒙主義の立役者ヴォルテールが1759年に書いた小説(現代のそれとはちょっと違うけど)。ちなみに、この小説を翻案したバーンスタインのミュージカルは「キャンディード」。とても似ていてちょっと違うのでご注意あれ。

  

 さて、ウェストフェリアの太守ツンダー・テン・トロンクのところに美しい娘キュネゴンドがいて、そこに使える若者にカンディードがいた。カンディードは哲学者パングロスの教えを受け、「世の中はすべて申し分ない」「ひとつの原因はひとつの結果に至る」「世界で起こることはすべて善」というライプニッツの哲学を受け入れていた。太守の領土は申し分なく統治されていて、カンディードは疑うべくもない。そこにブルガリア人(プロシャ人とのこと)が攻めてきて、太守の領土を奪い、太守の一家を殺し、雇用人を奴隷にしてしまう。さらにアバリア人(フランス人のこと)も来て、戦争状態に。カンディードも巻き込まれていまう。そして逃げ出し、船に乗ると嵐に会い、助けられると自身にあい、身元不明の浮浪者ということで投獄されてしまう。宗教裁判長を殺して、そこから逃げ出して、スペイン、パラグアイへと辺境をさまよう。
 途中で会うのは、落ちぶれた貴族や王たち。一時の権勢と若さはどこへやら、今では国を追い出され、一文無しで、老いた身を一介の使用人として糊口をしのぐしかない。とりわけ老婆の話は壮絶で、誘拐・拷問・虐殺・凌辱・奴隷・疾病・飢餓などあらゆる辛酸をなめることになる。それはいままさにカンディードの身に起きていることで、彼もまた一文無しになり、行く当ても頼る人もないまま世界をさまようしかない。
 パラグアイから移動する際に、エルドラドに彷徨いこみ、ここでは西洋の悲惨さをすべて逆転したユートピアに遭遇する。すなわち宗教、裁判、貨幣がなく、いさかいの起こらない幸福な世界なのだ(それがペルー語をつかうインカ帝国の末裔で実現するというのは、書かれた時代には相当な皮肉である)。しかし根っからの西洋人であるカンディードは一月でユートピア生活に飽き、エルドラドの人がさげすむ泥や石(こちらからは金に宝石)を貰い受け、勇躍帰還の途に就く。彼の願いはキュネゴンド姫に再開すること。手元の宝石や金を使うが、強奪されたり、詐欺にあったり。さんざんな目に合う。
 パングロス先生の教えとは裏腹に、世界はカンディードにとてつもなく厳しい。この厳しさを思想的に語るのは途中からタブに同行するマルチンなるマスネ教徒。かれがいうには「希望するものはなにもない」「われわれをキチガイ(ママ)にするために世界はつくられた」となる。この絶望の表明は、別に珍しくもない。もしかしたら世界の不条理や理不尽を説明するにはふさわしいかもしれない。ときに宗教の教えになって世界から離脱することを望むまでにいたることもある。
 にもかかわらず(ここは重要、カンディードはマルチンの考えを反駁したうえで以下を表明するのではない)、カンディードは「不幸な目にあってもすべては善だとキチガイのように言い張る」ことが大切という。なるほど、さまざまな悲惨な体験ののちに手元にわずかに残った金で小さな地所を買い、畑を耕すまではできた。会いたい人の再会も果たした。でも、畑の実りは少なく、美しかった人も醜く、やかましく、不機嫌になって、家庭の生活はそれほど楽しいものではない。それでも、カンディードは「なにはともあれわたしたちの畑を耕さなければなりません」という。その楽天主義。むしろ身体を使って、心の病みを忘れさせるやり方。これは日々の暮らしを続けるときには重要。まぬけではあっても、すぐに動き出すカンディードの姿は爽快だ。ヴォルテールの他の本が読まれなくなった(らしい)というが、この本が読まれるのはカンディードのディーセンシーにあるだろう。(この感想に熱がこもっていないのは、大江健三郎「カンディード一九七三@状況へ」岩波書店を先に読んでいたから。原作に合わせてこのエッセイを読めば、自分の感想はいらない。)
 ただ、この翻訳(1956年の吉村正一郎訳)、彼や彼女を多用するのだが、ときに誰をさしているのかわからなくなる。もう少し配慮した新しい訳文になるとよい。(追記:2005年に岩波文庫で、2015年10月に光文社古典文庫で新訳が出ました。)