1973年に雑誌「世界」に連載された論文集。同じ雑誌に小田実が「状況から」というエッセイを連載していて対になる。
作家からみた1973年だと、ベトナム戦争の継続(と終焉の予感)、被爆者援護法、金大中誘拐拉致事件、田中角栄訪中、公害反対運動、終末論や神秘主義などの流行、オイルショックによるインフレと買いだめなどがある。それに加えると、新左翼と旧左翼の迷走(連合赤軍事件や中核と革マルの内ゲバ、共産党の古参幹部の除名、中ソの反目、スト権ストへの国民の反発)があった。
ガリヴァの馬 ・・・ パリ和平会談後の北爆再会、ヴェトナム戦争へのこの国の加担。核兵器を頂点にするピラミッドとそれに抗する人民戦争。広島の原爆被災の現場で作家が見た一頭の馬から、ガリヴァ旅行記のフウイヌムのイメージへ。こういうイメージの転換が作家的想像力なのだろう。
眼くらましの言葉 ・・・ 核戦争の恐怖があって、核シェルターの購入を呼びかける財界と政治家の眼くらましのことば。それに対峙する「形成的コミュニケーション」を目指すルネ・デュポスやジャック・モノーら科学者の言葉。この二人(当時よく読まれた)にフランスのユマニストの伝統をみる。
メイラー/ヴィエトナム ・・・ 冷戦と産業社会の荒廃が世界と地球を覆っているが、人々は(とりわけこの国の人々は)は忘れやすく、権利を奪われた人からの告発に耳を閉ざしている。それに対し、メイラーのように社会の病患を全体的に受け止める想像力を持つべきである(メイラーは作家であると同時に、ノンフィクションライターでもあり、容赦ない政権批判を書いた)。
破壊者ウルトラマン ・・・ 怪獣映画、特撮ドラマをつくる大人(「大人子供」「子供大人」とも作者はいう)の想像力の貧困について。それは、1)悪や不正に対峙するのが機械仕掛けの神であること、2)そのような「ヒーロー」のいない現実において悪や不正に抗する論理を提示しないこと、3)科学の顔を持つ「ヒーロー」が都市や国土の破壊者であることを容認すること(および破壊された都市を再建する人々のことを無視すること、4)科学のもたらす人間的悲惨(戦争、核兵器、公害など)を隠すこと、5)悪や不正に抗する論理の力を子供ら視聴者にもたらさないこと、など。批判しているのは作り手と放送するものらの想像力で、つくられたフィルムや映像ではないよ。そこを取り違えてはならない(高校生のときに教科書にのっていたこのエッセイを読んだとき、そういう反発をもった。ネットにあるいくつかの感想もそういうもの)。
(本文とは関係ないけど、ここからヒーローたちの「正義」を考えてもよい。彼らヒーローは国家や共同体の法を無視して、暴力をふるい、住民・市民の資産を破壊し、ときに住民・市民を格闘に巻き込んで怪我を負わせたり死亡に至らせることがある。これらの行為は、フィクションのなかで訴追されたり、責任を問われたりしない。変身ヒーローのみならず、生身である水戸黄門や多羅尾伴内でも同じ。なぜ彼らは責任を追及されないのか、なぜ法の外にいるのに法を執行することができるのか。これをずらすと、軍隊や党の「正義」についても問うことができる。ここでやってはいけないのは、複数の「正義」を相対化して容認すること、権力の後ろ盾や容認があるからと正当化してしまうこと。)
破滅するジョンソン ・・・ 1973年に米国防総省に関係する国防分析研究所IDAの通称ジェイソン局に集まるエリート科学者が戦争加担する研究や提案をしていることをSESPAというバークレーの科学者グループが告発した。超エリートが権力のインサイダーになって非人道的な行為をしているのが明らかになる。当時の科学者による反戦運動の一つを紹介。科学のうち少なくとも科学者集団は政治的である、科学(者集団)が中立的であるというのは幻想というのがわかる。
逆照射 ・・・ 1973年春、オートバイにのって国会正門に激突死した沖縄青年がいた。彼の心情を推測しながら、その年の沖縄返還の意味を考える。それは、過去と現在の沖縄差別、沖縄収奪を明るみにだすこと。差別撤廃のためにマジョリティがマイノリティに「寄り添う」困難がそのときからあった(というか常にありながら、運動の起こるたびにゼロから問い直される)。
機械仕掛けの神 ・・・ 絶対的なるものは人間に相対的な考え、自己批判の契機を与え、自立した人間を育てることができるが、絶対天皇制はそのような論理的な思考を許さない。象徴天皇制は、機械仕掛けの神となって、人間の自由で柔軟な思考を阻んでいる。
悪疫年(プレイグ・イヤー) ・・・ 当時の終末論の流行をデフォー「ペスト」に重ね合わせる。16世紀のペスト禍で浮かれ騒ぐ人たちがいたように、公害や核戦争の危機、ノストラダムスの大予言や大震災の恐怖などに浮かれ騒ぐ人々の節操のなさをみる。この国は原爆という悲惨を経験しながらも、そこに民族や国家のアイデンティティを持たないという稀有な存在なのだ。
愚者の船 ・・・ 日韓条約と沖縄返還協定は国会の強行採決で決まり、同じ東京で韓国の民主主義者・金大中氏が拉致されこの国は「政治的解決」を果たして拉致された人の拘束を認めている。この国は、戦後の経験をなかったことにして、アメリカの核の傘の下で、目をつむっている。水先案内人のいない船に乗っているよう。
チャンピオンの涙 ・・・ ヴォネガットの新刊(当時)「チャンピオンたちの朝食」は滅んだあとの地球を異星人に紹介するという奇妙な小説。ヴォネガットの想像力に基づく地球の崩壊は現在(当時)のこの国のありかたに似ている。この国の人は人間や自然に粗野であるし、常に興奮して騒々しく、他人(他国)に上品にふるまうというたしなみに欠けている。
カンディード一九七三 ・・・ ヴォルテールの「カンディード」では主人公は奇怪な悲惨さに会い続けるのだが、この国でもカンディードに似た奇怪な悲惨さが生まれている。金大中氏の誘拐拉致事件に、沖縄海洋博による環境破壊(環境保全がテーマの展示会をつくるための環境破壊!)。
ヴォルテール「カンディード」(岩波文庫) 1759年
想像力的日本人 ・・・ 恐怖心は受動の情動であって、核・公害・資源枯渇などのまがまがしい未来に恐怖心で対応すると、受け身で、権威に寄りかかり、利己主義で、差別と格差を拡大するような行動になる。そういう受け身の考えの一つが神秘主義や疑似科学。想像力は能動の働きであって、恐怖心とは正反対の情動と行動になる。想像力を働かせて、状況を見ることが必要。
作家は典型的な書斎の人。状況は本や雑誌、新聞を通じて確認すること。そこに、彼の蔵書にある古典や新刊とを対比してアレゴリーを見出す。そのようなとらえ方をすることで見えてくるのが「状況」。このやり方はおおむね多くの本好きな人々の状況認識の方法モデルになる。それは、上記にあるように人々の行動と本に書かれたことに意外な類似や対比を見つけることになり、状況の見方、そこから類推される人々の思想や感情を多面的・重層的にとらえることを可能にするだろう。作家の場合、家族に起きた悲惨と国民に起きた悲惨が重なり、そこから世界が愚かな指導者によって誤った行動指針が提示され、悲惨を拡大する(しかしごく少数の人々には短期的な利益をもたらす)ものと見えてくる。これは誠にペシミスティックな見方(どことなくグノーシス主義に似ているね、あるいは神のいないところで奇怪な悲惨にあうヨブみたいな)。それを克服して、民主主義社会と世界の平和を構想するのは極端な困難になる。そこを乗り越える力は「想像力」から生まれるとする。
振り返ると、1973年はこの国の戦後の歴史では、ひどくペシミスティックな年だった(2001年や2011年ほどではないにしても)。そのうえ、社会にあったペシミスティックな雰囲気を乗り越えるような指針や思想もなかった。オカルトや終末論が流行ったり、「荒れる中学生」「暴走族」などの端緒だったり。それでも、こと経済だけは数年後に持ち直すなどして、明るさの胎動はあったのだ。だからバブル崩壊以後の四半世紀の閉塞感とは質が違う。あの時代の振り返りにはよいかもしれない。