odd_hatchの読書ノート

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T・G・ゲオルギアーデス「音楽と言語」(講談社学術文庫)-2 教会の機能と社会的な役割が変わり市民社会・資本主義が定着して以降は教会音楽が世俗化する。

 2017/04/18 T・G・ゲオルギアーデス「音楽と言語」(講談社学術文庫)-1 1954年の続き。

12 音楽的現実の諸段階 ・・・ ルネサンスパレストリーナ)、バロックJ.S.バッハ)、ウィーン古典派(ロココ)のの特長と発展史を図式的にまとめる。パレストリーナで、精神が音楽的素材を余すところなく満たすことができた。J.S.バッハにおいて、調性と通奏低音の技法ができる。これによって、パレストリーナになかった運動(目標や到達点を指向する前進)を示す。ただし、過去現在未来は統一されていて、到達点はあらかじめわかっている。その点で無時間的であり、意外やふいうちの起こらない叙事詩に似ている。ウィーン古典派は拍節の技法をつくる。これによって、目の前で起きているできごとが伝達されるようになり、非連続と不意打ちを与えるようになる。時間の区切り、時間の充填を区別し、時間の重要性にアクセントがつくようになる。とくに「いま=ここ」を強調し、瞬間の尊厳を表現する。瞬間の強調はその正反対の永遠も表し、悲劇的である。ウィーン古典派はカントと同時代であり、哲学で構想された純粋時間や空間、自由の思想を共有する。

13 ロマン派 ・・・ ロマン派になるとウィーン古典派と切断が起こる(この本では詳しく書いていないが、フランス革命とその反動、産業革命と資本主義の隆盛、宗教に対する科学の優位、それの反動としての芸術運動などいろいろあった)。ロマン派では言語は内心の表現で、テキストの感情や気分を音楽に転身することが重要。そこに反科学の神秘的宗教観への共感があって、ウィーン古典派を無視して、それ以前を重視した(この文脈でメンデルスゾーンJ.S.バッハ蘇演の意味が分かる)。ほかに聴衆や演奏者に音楽や宗教の素人である新しく「市民」になったもの、大衆が参加する。彼らは歴史を理解できないし、作品の厳粛さに共感できないし、作品の輝きをそれ自体として受け取り、享受するのみ。そのような大衆に向かって書くミサ曲は往古の輝きを持たない。後期ロマン派では教会音楽の書き手ではブルックナーが重要。唯一ウィーン古典派の衣鉢を継ぐもの。

14 現代 ・・・ ここでいう「現代」は1900-1950年のこと。現代作曲家のミサ曲、(ベネディクト会の)典礼運動、グレゴリオ聖歌の復活について。(後ろのふたつの運動はどこの話だろう。たぶんドイツ語圏内でのみの話ではないかしら。)
上山安敏「世紀末ドイツの若者」(講談社学術文庫)
テオドール・アドルノ「不協和音」(平凡社ライブラリ)

15 歴史としての音楽 ・・・ まとめ。カロリング朝からウィーン古典派までは(音楽の様式や形式の)記憶を継承していた(一種の発展史とみることができる)。一方ロマン派以降は記憶の断絶があり、素性よりも効果に重きを置くようになる。その理由は市民社会の隆盛にある。そのなかで、再びウィーン古典派の在り方を継承するものがあり、それが新古典主義ストラヴィンスキーカール・オルフ)。後半は音楽史の役割で、哲学史や精神史との関連で見ることを主張。あと音楽家の主観的な解釈も大事だけど、音楽史家の客観的な解釈(当時のスタイルや精神の研究)も必要。(この話は古すぎて、どうでもよい)


 「音楽」が対象にするものはとても広いので、西洋の、しかもミサ音楽に対象を絞っての音楽史の構成の試み。ミサが修道院で奏でられるものであり、典礼と語句を発声することが生活の一部であり、人生の目標のひとつであった人たちによって継承されていたもの。そうすると、ミサ音楽の隆盛と衰退は教会の機能と社会的な役割の変化を示すものであるだろう。その一方で、市民社会・資本主義が定着して、ウィーン古典派以降の音楽が15のように効果に重きを置くようになったのは、教会音楽の世俗化としてとらえることもできる。
 著者の音楽史が古臭く感じるのは、音楽の様式や形式分析が主であって、そこにわずかの哲学史や精神史が加わるだけというところ。他の歴史記述(社会との対応、制度との関係、技術の変化、科学の影響などが思いつく)を重ね合わせたほうがよい。この本の記述だけでは、教会音楽の重要さは見えてこないなあ。それに、著者のドイツ音楽、ドイツ語優位の前提にも鼻白む。そういうイデオロギーを持ち込んでの議論では、その先に進めない(まあ、1954年の本だから仕方ないと言えば仕方ないが)。
 初読の四半世紀前は、この本にとても影響された。それは自分がもっとも哲学に興味を持っていた時代だったから。とくに「12 音楽的現実の諸段階」はなかなかみえにくい17-18世紀を図式化できているのに感銘を受けた(似たようなことをもっと粗雑に考えていたから)。でも、この本を離れて当時のことを知るようになると、この本の記述はあいまいで朦朧としていると思う。21世紀に読む必要はない。昨今のピリオド演奏研究に関連した本を読んだほうがよいと思う。具体的な書名は思いつかないけど(ホグウッドやアーノンクールの本あたりかなあ)。