odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

石井宏「反音楽史 さらば、ベートーヴェン」(新潮社)-1 18世紀はイタリア音楽の時代。J.S.バッハ、モーツァルト、ベートーヴェンは人気がない田舎の音楽家。

 「反音楽史」とは面妖な。何に対する「反」であるのか、それとも「反音楽」なるジャンルの歴史であるか。その疑問はすぐに解氷するのであって、すなわち日本の音楽の授業でならう音楽の歴史(J.S.バッハが音楽の父でそのあとハイドン-モーツァルト-ベートーヴェンと発展、音楽の都はウィーン、声楽よりも器楽が重要、ソナタ形式こそ音楽の頂点、娯楽ではなく精神性の高いものが優れ、楽譜から作曲者の意図を知るべきなど)は19世紀半ばころに作られた神話であるというのだ。事実に即してみれば、上の音楽の系譜にある作曲家たちはヨーロッパ全土の人気を得たことはなく、没後しばらくは忘れられ、数十年後に上の神話とともに「再発見」されたのである。社会に流通している音楽としてみれば、人気があったのはのちに価値のない作品を書いたとされる作曲家たちだった。たとえば、ヴィヴァルディであり、ロッシーニであり、マイアベーアなのであった。ほとんどはイタリア人たちであり、たとえドイツ・ゲルマン地方であっても、イタリア人が高給で招かれ、彼らの作品が繰り返し演奏されていた。ドイツ地方出身の作曲家は地位も作品も低いものにされていたのが、19世紀半ばころに評価が逆転したのだった。
 なぜ、事実が忘れられこのような神話が作られたのか。19世紀半ばころからのドイツの音楽界からでてきて(たとえばシューマン)、20世紀初頭に確立した。そういう「誤った」音楽史を書いたのは、パウル・ベッカー「西洋音楽史」(新潮文庫)やアインシュタイン(翻訳は1956年。その後再販、復刻されていない模様:アインシュタイン吉田秀和の評論によく出てくる)など。これらを無批判に受け入れたので、日本の音楽史や教育は誤りだらけ、だと著者は憤る。ことに、楽しくない音楽教育。理論重視やトリビアの暗記、社会や歴史を教えない退屈な講義などに問題がある、とのこと。

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(別の説明として、プロテスタンティズムにより教会の権威が下がったので、18-19世紀に知的関心を哲学や芸術に向けるようになった。その際にナショナリズムが勃興し、シューマンらの音楽家にも影響したという説明も可能。もうひとつ、1871年普仏戦争でフランスが負けた後、フランスの作曲家はドイツの音楽を研究し、作風も模倣した作品をたくさん書いた。これも神話を流通させた理由のひとつになるだろう。)
ヘルムート・プレスナー「ドイツロマン主義とナチズム」(講談社学術文庫)-1
 この国で受容されるクラシック音楽はおもに19世紀のものだから、そこを取るとドイツ音楽こそ至宝と見えるのだが、18世紀となるとイタリア音楽がヨーロッパを席捲していた。それは聴衆からの支持、宮廷での雇用、作品の流通などから明らかだった。この時代の音楽の専門家である(らしい)著者は18世紀の様子を詳述する。

第1部 イタリア人にあらざれば人にあらず ・・・ 1700年代、音楽を聴くことができるのは宮廷しかない。民間の興行があったのは、イタリアとイギリスのみ(商業と工業で利益があって投資する人たちがいたのだ。フランスは農業国で貧乏)。イタリアはオペラの発祥地であり伝統があったので、宮廷はこぞってイタリア人を招いた。ドイツ人は職業の音楽家としては極めて低賃金で雇われ、作品も低いものとみなされた。そういう目で見ると、レオポルド・モーツァルトは大学を中退した脱落者。とりあえず音楽の職業についたら、息子が天才だったので神童興行をしたが、それはどこかの宮廷で声がかかって雇われることをもくろんでいたため。しかし貴族と聖職者階級には分厚い天井があって挫折する。息子アマデウス(イタリア風にした通称)もちやほやの経験から世渡り下手でどこからも雇われず、優秀なピアノ弾きとしてしか記憶されない。一方、ヘンデルは若いうちにイギリスにわたり帰化するほどに成功する。なのでジョージ・フレドリック・ハンデルと呼ばれるべきであるが、19世紀ドイツの音楽家ヘンデルと表記して、ドイツルーツを重視する。
(16世紀以降、イタリアが音楽の中心になったのは、地中海貿易の拠点として富が集まったことにあるが、同時に音楽家を養成するシステムができていたことがある。様々な事情で孤児になったものは市が経営する孤児院で養育されたが、その中に音楽家を育てるものがあった。彼らが教会で歌ったり器楽を奏したりし、成長するとヨーロッパの教会や宮廷が雇用したのだった。)
<参考エントリー>
2015/06/25 羽仁五郎「都市の論理」(剄草書房)
(オペラのトリビア。18世紀のオペラはギリシャやローマの神話を題材にしていたが、結末は常に神がでてきて仲裁を行う。その際、神は上から現れるので、劇場には宙づりの装置が設けられていた。そこから「デウス・エクス・マキナ(機械)」の名がついた。マキナが意味するのは劇場の宙づり装置のことなんだって!)
(追記。この感想を書いた後、シェイクスピアの戯曲を読んでいたら、すでに1600年前後のイギリスの劇場には神や天使が下りてくるための「デウス・エクス・マキナ」は設置されていたとのこと。)

第2部 それではドイツ人はなにをしていたのか ・・・ J.S.バッハは終生割のよい仕事を見つけようとしていた。バッハは金にうるさく、愚痴っぽい。音楽家家系図を作ったのはイタリアに留学して教育を受けることができなかった自分に箔をつけるためだった。就職先のケーテン、ライプツィヒなどの田舎では人気はあったが、ヨーロッパ全土では無名。息子の中で最も出世したのは、末っ子のヨハン・クリスティアン・バッハ。イギリスに帰化したので「ジョン・クリスチャン・バーク」と呼ぶのが正しい。年上のカール・フィリップらは人気作曲家になったことはない。マンハイム楽派、グルックのオペラ改革などは後世のドイツ音楽界の捏造。
(この章では「魔笛」の読み返しが面白い。フリーメーソンの影響といわれるけど、パミーナが試練に加わるとか、最も感動的なのはパパゲーノとパパゲーナの男女の愛の讃歌であるとか、女性疎外のフリーメーソンにはあわない。ザラストロはゾロアスター教に由来する(そういえばカントがゾロアスター教に関心をもっていた!)など、「インテリ好みの衣装をないまぜにした奇妙な作品」とのこと。モーツァルトよりシカネーダーが当時の流行りものをごたまぜにしたとみたほうがいいのだろうね。あとパパゲーノのような自然児も当時の流行りで(ルソー「エミール」とかマリー・アントワネットとかフランス宮廷の田舎暮らしのまねとか!)、オペラでは羊飼いとして現れるとのこと。それを知った瞬間に、ダフニスが羊飼いであるとか、オッフェンバッハ「天国と地獄」のプルトーンが羊飼いとして現れるとか、「ペレアスとメリザンド」にでてくる羊飼いとかを一気に思いだして、合点がいった。)

 

 本書で扱われる音楽史や「反音楽史」でも、教会の音楽と民衆の音楽は除外される。ベッカーやアインシュタインらが考える音楽にはこれらは含まれない(ついでにいうと、ジャズやタンゴのような20世紀に現れたポップミュージックも入らない)。でも、ベッカーやアインシュタインらと同じような考えで、教会の音楽の歴史を書いたものがいる。以下のエントリーを参照。
2017/04/18 T・G・ゲオルギアーデス「音楽と言語」(講談社学術文庫)-1 1954年
2017/04/17 T・G・ゲオルギアーデス「音楽と言語」(講談社学術文庫)-2 1954年

 リンク先の感想に書いたように、試みは失敗している。音楽史を形式の発展として見るとき(第3章で扱う)、教会音楽では進歩や発展を見ることができないのだ。どころか、17世紀イタリアの教会音楽(パレストリーナやラッススら)の成果を頂点に、その後は停滞や退化の歴史になってしまう。どころか19世紀の半ばでほぼ役割を終えてしまう。一方、20世紀後半から出てきた新しい教会音楽(ジャズやタンゴほかの世俗音楽と融合した新しいスタイル)を歴史に入れて評価することができなくなる。という具合に、方法がだめだった。

 本書の内容は、下記エントリーが参考になる。ベッカーやアインシュタインのようなドイツ音楽を中心にする考えを持たない新しい音楽史を描いている。
岡田暁生「西洋音楽史」(中公新書)
岡田暁生「オペラの運命」(中公新書
 逆に言うと、本書の出版年が2004年であるとき、著者の声高な主張はそれほどの衝撃をもたない。すでにピリオドアプローチの演奏で18世紀の古典派音楽が大量に聞くことができるようになっていて(この分野はレコードがCDになってから発掘や再発見が起きた)、モーツァルトベートーヴェンなどの「楽聖」を相対化することができていたのだ。
(というか、本書にしろ岡田にしろ、1920年代やそれ以前に書かれた「音楽史」を俎上にあげるというのが何ともアナクロで、批判の矛先があまりに現実離れしているように思う。あまり読んでいないが、戦後になってからはドイツ音楽中心の音楽史は書かれていないでしょう。まあ、初等から大学前の音楽教育の教科書やCD・DVDの音楽産業の解説はドイツ音楽中心を引きずっていたから、そこが批判のターゲットになっていたのかな。それの目的からすると記述はあまりに迂遠。15年前の1990年前後に出ていればよかったのに。)

 

2023/03/23 石井宏「反音楽史 さらば、ベートーヴェン」(新潮社)-2 2004年に続く