odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

筒井康隆「残像に口紅を」(中央公論社)

 読者の物理現実の側では、事物そのものが「在る」のだし、それについて語ることができる。コップ(サルトル)、くつ(ハイデガー)、太陽(カミュ)みたいに事物そのものを語れるし、事物は他の言いかえをしても在ることは変わらない。でも言葉でできた虚構では、具体であるものは文字しかない。文字が失われると、それが指示した対象も消える。
 この作家の小説では、たいてい小説の主題が説明されていて、ここでは冒頭の作家と批評家のやりとりにある。虚構の中の人にとってのリアルは文字だから。その文字がひとつずつなくなっていくとどうなるだろう。文字が消えるとそれを使っている、具体的事物もなくなるという設定にする。そうすると、日本語の約70の文字(というか音素)がなくなると、同時に虚構の「世界」も消失するわけになる。

「いかに自分がそれを大切に思い、それに大きな感情を篭めていたかがわかるのは、それが失われた時、または失われてのちのことだ。ひとつのことばが失われた時、そのことばがいかに大切なものだったかが始めてわかる。(P18)」

 どうだい作家としてそそられる設定ではないかね。たぶんほとんどの文字が消えた最後の方では「言語的ドタバタ」がおこるはずだ。この技術的な難題に、作家が最近のテーマにしている「中年の主人公が自分の大切なものを次つぎに失っていく(P26)」のも組み合わせる。虚構でないと「実感」できない悲しみになる。そこにどこまで読者は感情を共有し、移入することができるか。最初の100ページで、作家の家族(妻と3人の娘)が次々と消える。タイトルの「残像に口紅を」は、最初に消えた高校生の三女にかかわるもの。消えたという実感を持っているのは語り手だけで、その記憶もすぐに失われていく。なので、記憶の残っているうちに、ついに化粧することのなかった三女に口紅をつけた像を想像することで彼女に手向けにしよう、というわけだ。さてこの感情は物理現実における死による別離とはまた違うわけで、悲しみや悼みは感じるとして、さてどこまでの「深み」というかリアリティを持てるのか(まあ、物理現実ではメディアなどでこれまで無関係であった第三者の死を知った時に似ているのかな)。
 文字が消えるという大状況のほうが楽しいので、小・中の状況では主人公にはほとんど何も起こらない。食事に行く、ホテルで寝る、電車で移動するという日常がたんたんと描かれる。でも文字の消失といっしょに対応する事物が消滅する。結果、アクションのない物語で、最初からの3分の1で自分の大切なものをほとんど失ってしまった。最初のテーマは達成してしまったので、次には今までやらなかったことを書く。すなわち、男女の交合。それに自伝(のうち両親への憎悪)。いずれも作者にしては極めて珍しく(前者は「朝のガスパール」にもあったか)、他のところで書かれたことがない。文字が消えていき、正確な文章をかきにくいという制約を課したうえでの文学的冒険をする。
 さらに文字が消えていくと、他の登場人物は「発話障害」をおこす。残された言葉で言いかえをするのができなくて、激昂したり口ごもったりしたり、消えた文字を発音しないですましたり。しかし語り手と作家はそのような状況でも筋の通った文章をつくり、口ごもらない。ここに作家の矜持にプライドを見ると同時に、四半世紀の作家活動によって到達した文章の専門家のすごみも見える。作家の文体は必ずしも自分の好みとは合わないが(とくに1960-70年代のは)、ここまでの熟練と手練れの業を見せられると感服するしかない。
 さて、最初は雑誌に連載されたが、それは第1部と第2部まで。初版の単行本では第3部が袋とじになっていた。残っている文字が20もない中で、どういう「小説」になっているのか。言葉のドタバタとはどのような状態か。これは口をあんぐりあけながら、音の並びを楽しもう。ただ、気になったのは最後に残った音が一文字だけになった時、それを聞き/書きつけた「主体」はどこにいたのだろうか。「主体」はあったのだろうか。(作家が若いころに書いたショートショートで「地球と宇宙がぺちゃとつぶれた」という落ちがあり、星新一から「誰がその音を聞いたの」と突っ込まれたという話を思い出した。「到着」1961.02作)

<参考エントリー>
2017/10/04 筒井康隆「虚航船団」(新潮文庫)-1 1984