2018/11/01 伊藤計劃×円城塔「屍者の帝国」(河出文庫)-1 2012年の続き
この作品のみそは、生者と屍者と死者がいて、生者は死ぬことができるが、霊素をインストール(舞台は1880年前後というのに、21世紀の意味を持つ言葉が説明抜きで登場するのは疑問)すると「屍者」となって意思のない肉体が指令のまま行動でき(ただし肉体の損傷により使用期間は10年程度)、死者は市場の商品として高額に売買される。生と死の境目があいまいになっていて、肉体と霊素だけが人間の構成部品(パーツ)になっている。こういう読者の物理現実とは異なる徹底した唯物論の世界だ。
このような世界は奇妙ではあるが、目新しいものではない。古くは憑依による人格転移があったし、人形が意思をもつ(ようにみえる)振る舞いをするという怪異譚があり、20世紀には、ロボットやアンドロイド、レプリカントも同じく意思を持つかのような自律的運動をするという小説やアニメや映画はたくさんある。死者が活動し会話するというのは、山口雅也「生ける屍の死」(創元推理文庫)に出てくる。
この「屍者の帝国」に直接影響していると思うのは、押井守監督のアニメ映画で、「機動警察パトレイバー劇場版」「攻殻機動隊」「攻殻機動隊2イノセンス」を上げればよいか。これらでは人―人形、リアル―VR、生―死の曖昧さや定義の不完全さなどが議論されている。自分は「屍者の帝国」のそのような議論は素っ飛ばして読んだのであまり覚えていないが、たぶん似たようなことが語られたのだろう。
俺がこの種の議論に興味を持てないのは、区分を付けることに問題があると考えるので。生と死の区分にしても、立花隆「脳死」、笠井潔「哲学者の密室」などで議論されているように、あいまいな境界領域があって、生とも死ともいえない不分明な状況があること。それは生の開始にもあって、どこを人の開始とするのは決められない。通常科学がそうなのだから、想像力で拡張した設定でもあいまいさやグレーゾーンはあるでしょう。白黒はっきりつけられない領域を捨象するような議論に何かの意味があるのか。
(生と死の間に境界を引くこと、定義することには意味がないと思うが、生と死の個別事例を集めることで生と死の違いを判断することができる。今の死の「定義」はそういう事例の集積から普遍的なところを抽出した誤りのないことの集まり。)
そのうえ、あいまいで白黒つかないグレーゾーンに線を引くこと、区分することは、共同体の境界を付けることである。共同体の内と外を決める。それは共同体の「外」と認定されたところを排除する。「ザ・ワン」あるいはアリョーシャは人間の「屍者」化や「屍者」の高次存在への転化などを考え実践することによって、生者(あるいは生者のつくった国家システム)の範疇に入らない外の異人である。共同体の中にいても、生者ではない「屍者」は商品であり、「人」権をもたない。いずれも共同体の都合による排除。彼ら(という人称でいいのか)が排除されるのは共同体の外にいるからで、共同体の外にいるから排除していいというトートロジーができあがる。
なので、この小説にでてくる生者と屍者の区別や高次存在への転化などという議論にはまるで興味や意義をみいだせなかったのよ。
まあ、最後に、ワトソンはある決断をして、生者でも屍者でもないところに「いっちまった@金田byAKIRA」。これもまたあいまいな感じだけど、押井守「攻殻機動隊」の最後みたいなものではないかな。とりあえずあの場所は国家の管理のとどかないところではあるが、電源を切られたら消滅するのであって、共同体の外にでたわけではない。かように共同体の外にでることは不可能であり、国家や共同体が強制する区分けは差別と排除を要請するという暗鬱な決め事を思い出すことになった。
2015年にアニメ化された。自分はTVで放送された(たぶんカットのある)バージョンでみた。
失望。
画面と会話だけでは、小説の仕掛け(大量の先行作品の引用に、歴史の読み直しなど)を理解するのが困難だったことがあるが、これはいいや。気に入らなかったのは、主人公たち(ワトソンやバーナビー)が感情発露の激情的な会話と行動をするところ。小説ではワトソンは医学の徒として感情を廃した、科学的なレポートを心がけている。他人がどういう感情なのかはかかれず、自分自身の感情さえ書かなかった。<この自分>をさらに外におくような「客観」性を保持しようという性向をもっている。そのため格闘シーンではほぼ傍観者。自身は周囲の連中の行動をみているだけ。それが、アニメでは怒り、叫び、殴り蹴る。
おかげで、無垢で正義に立つ(と思い込んでいる)若者が、他人を支配下に置くという陰謀を企む老人や大人を懲らしめ、世界の謎を解くというアニメではありふれた物語になってしまった。小説にはないフライデーへの共感がサブテーマに加えられ、小説のラストシーンも別のものに書き換えられた。
スチームパンクの映像化を試みたらしく(大友克洋「スチーム・ボーイ」2004年が先にある)、細部はがんばっている(よう)だが、ストーリーがこれではね。一度見ただけで、見直していない。
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