2019/11/05 山口雅也「生ける屍の死」(創元推理文庫)-1 1989年の続き
初出は1989年(その後改訂されたらしい)。思い出すと、1980年代後半に「脳死」論争があった。医療機器の発達で脳以外の器官は機能停止にならないが、脳だけが機能停止した状態があり、それを死と判定するかどうかという議論。脳出血などで最初に脳にダメージが与えられたときに、「脳死」になる。なぜこれが問題になったかとすると、1)この国の死生観とか身体観からすると心臓が動き呼吸が行われている身体を「死」と認定するのが難しいこと、2)「脳死」状態から取り出した臓器は他の身体に移植したとき成功率が高くなること、の2点におおむねまとめられる。そのうえこの国では1967年の心臓移植で「脳死」判定と臓器移植の経緯があいまいで、刑事事件になったことがあって、しばらく「脳死」と臓器移植の議論が停まっていた。欧米ではこの議論は1960年代から行われて、その地域の宗教観とか身体観があって、おおむね脳死は死であると法制化された。しばらく議論があって(といっていいのか? 聴講会とかヒアリングとか市民参加の議論はきわめて少なかったはず。この国の民主主義はこんな感じ)、脳死は死とする法律ができた。まあ法制化されたからといって、ドナーが急激に増えたか、臓器移植が盛んにおこなわれるようになったかという実行・定着はおぼつかないはず。
もうひとつ「脳死」の技術的な問題は、生と死の線引きがあいまいになったこと。それまで医師が脈をとって「ご臨終です」といって死が宣告されていたのが、「脳死」になるとある瞬間を「死」とすることができない。たしか自発的呼吸の停止、瞳孔拡散、膝蓋腱反射の喪失の3点とそれが12時間以上継続することでもって「脳死」とされたのではなかったか(30年前の知識をアップデートしていないので、間違いかも知れません)。死が訪れた瞬間を「いま」判定することはできず、遡って「死」とすることになる。生体機能喪失の過去と判定したいまの間に生でも死でもないあいまいな状態が存在する。それをどうみるか。日常には不都合はなくとも、遺産相続あたりの法の手続きを厳密化しようとすると、科学や医療の示すこのあいまいさは法や治安にはふさわしくない。
この「生ける屍の死」の登場人物たち、なかでも小説の最中に死んで甦ったリビングデッドたちも、生と死の単純な二分法に分けられない微妙な位置に「在る」。リビングデッドになって動くことができ、会話することができても、いずれ近いうちに肉体は腐敗し、機能を停止する。当然、遺産贈与の対象にはならないとして、たとえばリビングデッドが起こした事件の「責任」を取れるのか、「殺意」を証明できるのか、何とも厄介な問題につきあたる。いやこれは生者の側の一方的な問題であって、リビングデッドという「当事者」の側からすると別の問いかけ、「在る」の根拠と無根拠が生じてくる。これは面白い問題と思うが、この小説の中では感情が醒めてしまって、客観性と合理性を獲得してしまい、達観(とはなにか?)しているようで、深められない。というか深めようがないか。未来や希望がなく、転生の可能性を閉ざされて、生者の想像できないところにいるみたい。
<参考エントリー>
フィリップ・K・ディック「逆まわりの世界」(ハヤカワ文庫)
フィリップ・K・ディック「ユービック」(ハヤカワ文庫)
伊藤計劃×円城塔「屍者の帝国」(河出文庫)
この小説には、特に前半に、死に関するさまざまな議論が出てくる。章のエピグラフに引用されたり、大量の参考資料が巻末に掲げられていたり。「生ける屍の死」は哲学と文学をたくさん渉猟している死の百科事典の趣きがある。自分としてはハイデガー、アリエスほかの哲学者の議論を聞きたかったが、あまり深く掘り下げない。まあ、上のようにリビングデッドの生と死の境目のあいまいなところを哲学は対象にしてこなかったし、今後も対象にはならないだろうし。この小説の想像力が今後の規範になるのだろう(そういう視点をエンターテインメント小説に持ち込んだこの小説はすごい)。(追記。初読時の2016年にはそう思ったが、強く言い過ぎた。哲学は対象にしているかも。)
ラストシーン。心ならずも探偵を務めることになったパンク青年グリン。自分にやり遂げることを決意させた仕事をなしおえ、肉体が限界にくる。そのときに、リビングデッドになる前の自分の存在を問いなおす。神や哲学その他のロゴスを肯定しえないグリンはある意味を見出す。すなわち「愛」の可能性。
(そこで笠井潔「哲学者の密室」を思い出す。生と死がきれいに分かれるものではなく、収容所の囚人という名前を剥奪されたリビングデッドが在ることの意味を問い、最後に「愛の可能性」を見出す巨大な物語。このふたつのほぼ同時期に書かれた大著は鏡に映る像のように似ていて、しかし一致するところがない。)
笠井潔「哲学者の密室」(光文社)-3