odd_hatchの読書ノート

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トーマス・マン「魔の山」(筑摩書房)第6章-2 「Zauberberg」は「奇人変人たちの山」

2023/04/28 トーマス・マン「魔の山」(岩波文庫)第6章-1 ナフタはキリスト教共産主義を目指す宗教的情熱家 1924年の続き

 

  全体のタイトル「魔の山」は日本語でしか知らなかったが、ようやく「zauberberg」であると知る。何が「魔」であるかはたくさんの解釈があるだろう。とりあえずひとつあげると、療養所の時間は「低地」の資本主義や近代市民社会での流れ方とは全く異なっている。時計で測られ針の動きに命令されて人間が動くような時間はない。この「魔の山」では、瞬間と永遠が同時に起こるような「魔」の時間が流れている。
 あるいは、ハンスにさまざまな考えをもたらす人がみな<外国人>であるのも「魔」であるかもしれない。イタリア人のセテムブリーニ、ユダヤ人のナフタ、ロシア人貴族のショーシャ夫人、このあとの第7章に登場するオランダ人のペーペルコルン。外からもたらされるさまざまな異教や誘惑のことばがドイツ人であるハンスに「魔」をみせるのだ。
 クラシックオタクである自分には「zauber」がモーツァルトの歌劇「魔笛」やマーラー「子どもの不思議な角笛」で使われているのを知っているので、そこから類推すると、「魔の山」とするよりは「奇人変人たちの山」のほうがぴったりする。

 

「精神的修錬(operationesspirituales)」 ・・・ レオ・ナフタはウクライナ出身のユダヤ人。父が村人のヘイトクライムで死亡したので、家族そろって脱出した。レオだけ学校に通い、ユダヤ教に懐疑するようになる。ある時イエズス会神父にあい、議論するうちにカソリックに改宗。神学校に進み優秀な成績(と奇矯な行動)を示すが、肺の病が進行し、立身出世を断念して療養に勤めるようになった。以上ハンスが聞き取ったナフタの半生。さて、ハンス、セテムブリーニ、ナフタの三人が雪道を散歩しながら大議論をする。セテムブリーニが市民精神や近代化を賛美するのに、ナフタが中世キリスト教イデオロギーで反駁するという構図。ハンスはついていけなくなって困惑する。
(ナフタは宗教教団による世界帝国を夢見ているようだが、それはとても偏狭で不寛容なもの。なにしろ死刑、拷問を肯定するのだし、その理由は魂の浄罪のためになるというものだから。彼自身が肉体を軽視するように、他人の肉体にも無関心で無感動だ。)
(この章はドイツ風煩瑣議論のパロディかしら。それぞれがいいっぱなしで、会話が深まらず、マン先生にして箇条書きになっているし。)

「雪」 ・・・ ハンス2回目の冬は曇りがちで雪が多い。ハンスはスキーを独習することにした。ひと月くらいで自信がついたので、療養所の周囲から次第に遠くに出かけるようになった。ある日は天気は悪かったが、ハンスは遠出をする。案の定、3時ころから吹雪いてきて気温は零下20度になってしまった。一時間ほど彷徨ったあと、元の場所に戻ったハンスは小屋の陰で風をよけ、持ち合わせたポートワインを飲んで酔っ払ってしまう。10分ほどのうたたねで夢をみて、ハンスは元気を取り戻す。さいわい5時には吹雪が止み、療養所の夕食に間に合うことができた。
(ハンスが見た夢は、古代ギリシャ風の穏和な共同生活、その背後の神殿で行われているおぞましい呪術儀式。自然な生と理不尽な死の隠喩だ。その夢をハンスは、ある大きな魂が<私>を通して無名で共同の夢を見させたのだと考える(おお、ユングの集合無意識の先駆)。その夢と死の冒険を体験したことで、ナフタもセテムブリーニもおしゃべりするだけで、生にも自然にも関与していないと否定する。彼らは対立を議論するが、人間だけが高貴なのであって、死の思想に支配されてはならないと決意する。こういう自然との対決が理性や言語の議論を止揚するというのはいかにもドイツ的というか、安易な棚上げというか。死の思想に支配されてはならないとトーマス・マンはいったのだが、この10年後にはナチスハイデガーの死の思想がドイツを支配してしまった。)
(ハンスの冒険はきわめて危険であって、フィクションの都合で生還できたのだが、通常は小屋の陰に突っ立って風を避けているだけでは凍死は免れまい。うたたねから覚めたハンスは体の深部に温かさを感じたというが、それは凍死の直前の感覚なのだ。)
(この章は前回の初読で最も印象に残ったところ。読み返して奇妙に思ったのは、ハンスの冒険が一人で行われたことだ。ドスト氏ならば複数のキャラクターを登場させて、ドタバタなアクションと深刻で意味ありげな会話をかわさせただろうに。ドスト氏だったらどうしたかを妄想すると、マン氏の方法はとても理知的で観念的図式的なやりかただと得心した。)

「兵士として、それもりっぱな」 ・・・ ナフタがイエズス会であるとセテムブリーニは暴露したが、セテムブリーニはフリーメーソンであるとナフタは暴露した。セテムブリーニは肯定し、互いに相手を批判・批難したのである。
さて、ヨアヒムは下士官になったが、大演習が始まる前に体調を崩し、7月(ハンスが到着して2年目)に療養所にもどる。10月に体調が悪化し、ベーレンスは咽頭結核であると診断。11月には寝たきりになったので、母を呼び最後の介護となった。ヨアヒムは亡くなり、棺に入って療養所を出ていく。
(ハンスとヨアヒムは第5章「死人の踊り」で重症や危篤患者を訪問して会話を交わしたのであるが、今度は身内に対して行うことになる。それは「死人の踊り」の「慈善僧」のようなわけにはいかない。血縁による親愛関係が利害関係のない第三者として人の死をみるわけにはいかなくなる。ハンスもしゃべらなくなり他人との付き合いを狭めていく。いくつかの箴言

「事実わたくしたちの死は死んでゆく当人よりも遺族にとって問題なのである。われわれに生のあるかぎり死は存在せず、死の来たるときわれわれは存在しない、したがってわれわれたちと死とのあいだにはいかなる実際的な関係も成り立たない、死はせいぜい世界と自然とに関係があるくらいで、われわれには縁のないものである、——さればこそあらゆる生物はきわめて平静、冷淡に、無責任な利己的な無邪気さで死を眺めるのである(エピクロス)」。

他人の死を多数見てきたベーレンスは科学者らしく「死は誰も体験することがない」「主観的性格の入る余地はない」と慰める。この発言はラストシーンのハンスを思い返すと、とても意味深長。ベーレンスはハンスの死を幻視・予測していたよう思える。)

 

 「奇人変人たちの山」としたいのは、肺病に罹患していて市民生活や共同体から疎外された人々のあつまりというのがひとつの理由。仕事をしないし、生活を持たないので、それだけで反市民的であるし、ドイツのプロテスタントのように仕事を高潔な人生の目的としない彼らは倫理規範から外れているということでもある。小説の読者は市民生活では労働者や学生であるだろうから、この小説のキャラクターは彼らが市民生活から排除した人たちであり、彼らの暮らしを見ることは身近にいない人を覗くことになる。本書の特長は、労働者や下層階級が登場しないこと。療養所には看護師がいるし、近くの村には商人や宿屋などがいるが、彼らはサービスを提供するだけで、主張をもたない。あくまで金と地位を持つものだけの集まり。「低地」の市民社会からかけ離れた摩訶不思議な場所なのだ。
 もうひとつは、この主要キャラクターたちが西洋の保守思想団体のスポークスマンを果たしていること。セテムブリーニがフリーメーソン、ナフタがイエズス会の教義をなぞるのがその代表(第3章5の登場時にはヴォルテール主義、プルードン主義かと思ったがそうではない。どちらも既存の帝政国家を否定するところは共通)。そういう思想団体に関係なさそうなハンスにしても、ワンダーフォーゲルをやる保守的学生組合の主張であるし、ヨアヒムは軍人志向と帝政国家を支持している。ここには民主主義者も社会主義者アナーキズムもいない。既存の国家を公正に変えようとする政治哲学は避けられる。既存の国家を守るか、解体して全体主義に再編するか、その選択肢の間をハンスは動き回る(が、このモラトリアムの若者は相対主義を利用して結論をだそうとしない)。

 

追記
 どうやらドイツの「市民社会」はフランスの共和制やアメリカの共和主義を成立している市民社会とは別なようだ。ドイツの「市民社会」を名付けたのはヘーゲル。その「法の哲学」(の解説など)を読むと、市民社会を構成するのは公民(シトワヤン)と市民(ブルジョア)。前者は国家の試験に受かったものや任命されたもので国家の機能を果たすもの。後者は商会や工場を立ち上げた資本家でもあるが、おもには職業組合や同業組合(ギルド)の構成員。経済活動によって国家の富を増やすもの。国家は公民と市民によって運営されるのであり、その構成員が作る特権層が市民社会だ。職業組合に入れない徒弟や工場労働者、個人経営の商店主、農民などは市民社会には入れない。これが19世紀の市民社会のありかた。市民社会とそうでない社会では、生活習慣や文化、時には言語が異なり、厳然とした区別があった。複数の社会があって、相互に行き来しないような状況があった。
 20世紀になると、「市民社会」 が崩れる。市民社会に入れないものたちが権利を要求する運動がおこり、国家が要求を認め、公民と市民(ブルジョア)だけが持っていた権利を市民社会から排除されていた人間(@マルクス:注意しないといけないのはマルクスの人間には女性とエスニックマイノリティはふくまれない)持つようになった。こうして政治が多くの国民を占める人間(@マルクス)に解放される。と同時に、技術革新と経済発展は市民(ブルジョア)のうち古い職業集団の仕事が新興資本にとって代えられ、地位と資産を失っていく。生活習慣や文化の違いが解消されてどちらも似たような暮らしをするようになる。知的な活動をする人間(@マルクス)が増え、文化産業は大衆向けの商品を売り出すようになる。これも市民社会を大衆に融解させていく動きになる。市民社会の構成員が没落し、大衆と同じになって行く。19世紀の政治や文化を指導していた階層が小さくなり影響力を失っていく。
 このような市民社会大衆社会に変容していくのはWW1の後に劇的に進むのだが、ハンスが見たのは諸外国の人と文化が入り込む辺境で、都市に先駆けてドイツの市民社会大衆社会に変容していく姿だった。

<参考エントリー>
2022/06/23 福吉勝男「ヘーゲルに還る」(中公新書) 1999年
2022/06/21 カール・マルクス「ユダヤ人問題に寄せて」(光文社古典新訳文庫) 1843年
2022/06/20 カール・マルクス「ヘーゲル法哲学批判序説」(光文社古典新訳文庫) 1843年


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2023/04/26 トーマス・マン「魔の山」(岩波文庫)第7章-1 ペーペルコルン氏はカリスマ独裁者のカリカチュア 1924年に続く