odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

柄谷行人「言葉と悲劇」(講談社学術文庫)-1

 1984年から1987年にかけての講演を収録。「内省と遡行」「隠喩としての建築」を踏まえて「探求」に行くまでの期間にあたり、これらの論文集と内容が重なるところがおおい。聴衆を前にして、彼らを「説得」するように語るので、論文よりもわかりやすいところがある。行ったり来たりしながら読むと参考になると思う。

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バフチンとウィトゲンシュダイン 1984.11 ・・・ 構造主義以降、自己言及的な観念論から抜け出られなくて、その手掛かりとしてウィトゲンシュタインバフチンに注目。その先で「社会性」「実践性」が問題になるかも。日本の思想は「建築なき建築」で、西洋的な思考(神との対峙とか個人主義とか)がないので、マルクスケインズの破壊力を実感できない。日本の言語空間(ポストモダン的で近代批判から始まった)が自己免疫疾患的な、自己言及的な状態に陥っているので、外に出ないと。でも空間・時間の外はないので、「建築への意志」やモダンであるしかないという観点からの生き方が必要。他にもいろいろおもしろい指摘があるけど割愛。

漱石の多様性―「こころ」をめぐって 1985.02 ・・・ 漱石の謎は、文体(小説、俳句、漢詩、英文など)の多様性がなぜ可能だったかにある。「こころ」にでてくる「明治の精神」は、明治10年代にとざされた明治維新の可能性(シンボルは西南戦争)とみるべき。先生、Kの世代は近代国家の確立で、政治的に挫折し、内面・精神の優位を掲げて、世俗的なものを拒否して対抗した人たち。漱石も近代の小説中心主義やその抑圧性に抵抗し続けたとみるべき。「明暗」を絶頂と見ない方がよい。

言葉と悲劇 1985.05 ・・・ 悲劇にみられるのは、言葉の両義性による錯誤、構造や規則に依存しないコミュニケーションの錯誤。これは立場の非対称性にかかわる。例は親と子供、教師と生徒、商人と購入者など。相手の反応が保証できないがやらざるをえない「暗闇の中の飛躍」が行われる。

ドストエフスキー幾何学 1985.06 ・・・ ドストエフスキーの小説は非ユークリッド幾何学のよう。平行線が交わるという公理系(交差点にキリストがいてそれが特異点)を採用。バフチンのいうポリフォニックはたんに声の多数性を言うのではなく、キリストや作者という外部が小説の中に入っていて、それで成り立っているところ。これは資本主義のポリフォニック(資本主義化できない生産や人間という外部を前提にしていてそれで生き延びている)とパラレル。ドスト氏は他者や読者の先取りでおしゃべりをする。自由を確保しようとするほど、崩壊していく。ドスト氏の人間が独立しているのは言葉の問題。作者が言葉を管理しきれていない。

江戸の注釈学と現在 1985.11 ・・・ 西洋がジャポニズムというとき、対象の日本は19世紀の江戸。超越的なものに到達しない、その手前にとまる。それが近代の否定に見え(昭和10年代の「近代の超克」もそのモチーフ)、この国では軽さ・浅さの洗練の極限にあった。近代文学は江戸の域を否定して、野暮・野蛮から始まる。気になる江戸の思想家(仁斎、徂徠、宣長)は朱子学という合理主義批判。それも外の概念を使わず(明治以降の思想のやり方)、内部の論理や用語を批判したところ、他者・異質なものとの会話である対話として読んだ。江戸のディコンストラクション

「理」の批判―日本思想におけるプレモダンとポストモダン 1986.01 ・・・ 江戸元禄(18世紀後半)は商業経済の浸透、武士の危機感(サラリーマン化、アイデンティティの喪失)、中国の影響からの離脱が見られた時期。これは昭和元禄の1960年代に似ている。ともに文化の洗練とデカダンスの極地。文化文政になると元禄の緊張感が薄れ、軽さ・薄さになる。これは1980年代のポストモダニズム脱構築的状況に似ている。後半は江戸時代のロゴス中心主義批判、脱構築を行った仁斎、徂徠、宣長の話。江戸は中国の「理」を、1980年代は西洋の近代を批判するという違いがあるが、方法には共通点がある。

日本的「自然」について 1986.10 ・・・ このころには関心が「他者」と「共同体」に移動している。実存とか存在者など自己差異化はいたるところでみられるが、たいてい「他者」の視点がない。そのために自己差異化がナルシシズムと共同体になっている。自己と非自己を区別する自己差異化における非自己をたいていは他者というがそれは自己。他者は契約すなわち共同体と共同体の間での出会いでみいだせるもの。規則や言葉やルールが通じない、非対称の関係にあるものが他者。日本の自然(じねん)もそういう自己差異化であって、ナルシシズムと共同体の中に自分を閉じ込めていく。共同体の外部に出て、他者とかかわるありかたを問いつめることが必要。


 前半では理論の応用編ともいえるような文芸評論が並ぶ。いやあ、ここまで読めるとは脱帽。いずれ漱石「心」を読むこともあるだろうが、そのときは「激石の多様性―「こころ」をめぐって」を参照してからにしよう。
 さて、後半の先取りになるが、これまで形式化や外部を問題にしてきたのが、共同体と単独性を追加する。そこで共同体と共同体の間、交通空間、砂漠などが取り上げられる。そこで、共同体の外には出られないが、間を生きることができる、「共同体の自明性に違和を持ち」、ディストラクションするように考えた人としてデカルトマルクスがいるとされる。これが20代に読んだときに、強く共感した。今回の再読でもよくわかった(でも言葉にしがたい)のは、なるほど自分のような自閉症スペクトラム傾向をもっていて、コミュニケーションがうまくない(というか自分の自然にふるまうとたいてい他人を怒らせてしまう)となると、共同体の自明性に違和はつねに感じている。
「《故郷を甘美に思うものは、まだくちばしの黄色い未熟者である。あらゆる場所を故郷と感じられるものは、既にかなりの力を蓄えた者である。全世界を異郷と思うものこそ、完壁な人間である。》」
という十二世紀ドイツのスコラ哲学者聖ヴィクトル・フーゴーの言葉が引用されているのだが、「全世界を異郷と思う」ところが自分にぴったりだった(とはいえ完璧な人間であるとは全く思わない)。共同体と共同体の間に生きるのは、共同体の中にいる人からなかなか行い難いのであるが、ときにある種の人々はそのように生きていて、それが自然であるのだなというところに共感した。
(亡命や難民になることも共同体と共同体の間に生きることであり、たとえば在日コリアンはそのような生き方をしているのだろうと想像するが、どうだろう。あまりよく勉強していないところなので、ここまで。)

2018/12/07 柄谷行人「言葉と悲劇」(講談社学術文庫)-2 1989年に続く