odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

柄谷行人「探求 I」(講談社)

 雑誌「群像」に1985年1月から翌年6月頃まで連載された論文。同時期の講演集である「言葉と悲劇」は、同じ話題や主題を平易に語っているので、併せて読むとわかりやすい。
 とはいえ、ぼんくらな自分にはサマリーなど作れないので、気になったところ、関心を持ったことを抜粋することしかできない。

 

他者とはなにか ・・・ 通常他者は自己に敵対する主体とおもわれるが、それは自己投影。「教える-学ぶ」「売る-買う」のような無根拠で非対称的なコミュニケーション(交換)関係で規則を共有しないものが他者。前者は後者の合意が必要で、後者が認めることで意味や価値が成立する。言語ゲームを共有する領域である共同体と共同体の間(「砂漠」)で他者が現れ、交換が成立する。それをマルクスは「社会性」という。あるいはデカルトの「疑い」が起きる場である。デカルト主義、フッサールハイデガーには他者がいない。(ヤコブソンとソシュールの話は自分には理解不能

話す主体 ・・・ 内的な同一的な意味(規則)の想定を疑いつづけるウィトゲンシュタインの「言語ゲーム」について。

命がけの飛躍 ・・・ リゾームとかそういう思考は意味や規則から出発する思考。他者がいない思考。ウィトゲンシュタインがいうように、意味や規則は行為の「命がけの飛躍」の事後的に成立する。外部は社会性における交換で現れ、排除される。(ということで、「内省と遡行」「隠喩としての建築」の仕事の批判的跳躍が行われる。)

世界の境界 ・・・ われわれの「世界」は言語ゲームの中で存在する。共同体が明示するような境界ではないし、共同体の区分とも一致しない。人間と動物、人間と機械の「共通の生活様式」を考えると、われわれの「世界」の教会派不安定。言語ゲームは日常行われ、目前にある。

他者と分裂病 ・・・ ベートソンの「ダブルバインド」は他者に対する応答として表れる(と「隠喩としての建築」の頃から変化)。あとはドストエフスキーと日常言語学派について。

売る立場 ・・・ 「貨幣の外部性=超越性は、商品がおかれる関係の非対称性に集約される(それこそが「社会的関係」)」「商品自身には価値は内在せず、他の商品(貨幣)と交換されるほかに価値を与えられない」「共同体の外部、あるいは共同体と共同体の間では、共同体内部とちがって、規則体系は成立しない」「この市場=社会的空間は、根本的に多数体系的である。相異なる多数体系がなければ、剰余価値したがって資本もありえない」

蓄積と信用――他者からの逃走 ・・・ 産業資本であれ商人資本であれ資本の蓄積のみを目的にする。ときに守銭奴、貨幣の退蔵が現れるが、欲望や必要からなのではなく、「売る」という危うい立場をまぬかれようとする衝動・倒錯。「売る-買う」を頻繁に行うところでは債務と債権を相殺しあうことで「売り」の危うさを減殺(リスクを減らす)する。この信用は他者と向き合うことの回避。信用は資本の運動の回転を加速するが、それは決済の無限の引き延ばし。とつぜんやってくる決済が恐慌。ここでは商品よりも貨幣が求められ、信用の幻想が崩れたときに現実的なものをして見出すのは、それ自身には価値のない貨幣。

教えることと語ること ・・・ 教えることteachと語ることtellについて。話す-聴く、書く-読むで考えても、独我論ノローグからでることはできない。脇を通って語る。それは、教える-習うへの態度変更。

家族的類似性 ・・・ 「互いに重なり合ったり、交差し合ったりしている複雑な類似性の網目」。「『家族的類似』の問題は、社会的な過程(共同体と共同体の間での交換)のなかで、けっして、共通の本質、あるいは、通約可能性が見出されないこととつながっている。」

キルケゴールとウィトゲンシュダイン ・・・ キルケゴールはキリストという他者を考えたが、それは独我論的思考に他者を導入することに他ならない。「コミュニケーションが合理的には不可能であり基礎づけることができないにもかかわらず、現実にそれがなされている事実性に驚くべき」。「イエスの方が、弟子たちという《他者》の前で困惑している。この「深淵」あるいは「蹟きの可能性」は「教える-学ぶ」という非対称的な関係に存する。そこでは、『直接的伝達』はありえない」

無限としての他者 ・・・ ドストエフスキーの人物は饒舌するにしても沈黙するにしても緊張をもっている。それは言語ゲームを異にする他者に直面し、他者との間の深淵を飛び越えようとしてるから。キリストへの固執

対話とイロニー ・・・ 他者とは一対一関係(共同的・一般的な規則が事後的にしか成立しえないような関係)で現れる。他者を問題にしたソクラテス、キリスト、ブッダは一対一の対話を重視し、書かなかった。書くことで他者の単独性が失われるから。一対一関係の対話をイロニーと呼ぶ。


 「内省と遡行「隠喩としての建築」がとても息苦しくて、閉鎖的な感じがしたのだが(まあ、内部を語っていたのだからそうなるか)、ここになるととても明るく、広々とした感じになる。独我論とか形而上学とかの建築や内省をどうにかしようとして、内部を内部の論理を徹底することで瓦解させようとしてきたのだが、ウィトゲンシュタインの「教える-学ぶ」の関係を導入したら、内と外は区別されるのではなく、日常にありふれたところでふと現れ消えている。現実にそれが起きているにもかかわらず、基礎づけることができないという「事実」。いっしょうけんめい外部を探そうとしていたら、自分のすぐ横に「いる」のが分かり、そのことを知ったとたんに、自分のまわりの「世界」のありようががらっと変わってしまった(変わったのではなく、深さとか奥行きが広がった:ここらの言葉使いは著者の考えに全く逆らっているな)。
 くわえて「他者」を自分に対立・敵対するものにみてきたのだが、「対立・敵対」にフォーカスすると、それは内省であらわれたことを反転させただけ。実のところは内省や内面にほかならない。敵対するなにものかは共同体の中にいる。決して外部ではない。この考えもすっきりする。(ついでにいうと夢に現れる他人も自分の内省や内面の反映であるというのも同様にすっきり。夢の中で対立・敵対するような像、あるいは憧憬として表れる像もまた、内省や内面の反映で、外部ではない。ここはフロイトがすでに言っていることか。ここで対立・敵対ないし憧憬として表れる像を他人と思い込むと、感情が大きく揺さぶられて判断や行動を誤る。)
 外部や内部、建築の意志とかいろいろな問題が、言語ゲームを異にする「他者」の存在を認識することで、すっきりする。重要なのは、外部だ内部だ、建築の意志だを考えているときにはさほど重要ではなかった、実践の問題が「他者」との交換から湧き上がってくる。なにしろ、他者は外国人、子供、というようにすぐ隣にいて、非対称的な関係をつくることになるのだから。即座に、他者の存在を認めない、排除するという独我論の持ち主の差別や排外とどう接するか、排除される他者にどう交換するかなど具体が生まれてくる。なので、この本に書かれているのは、とても抽象的であるが、倫理と実践をふくんでいる。