odd_hatchの読書ノート

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法月綸太郎「ふたたび赤い悪夢」(講談社)-2 躓いた名探偵は柄谷行人の本に慰められるが、探偵はその職務上〈砂漠〉にも〈他人〉にも出会えない。すぐ横にあるのに。

2019/06/20 法月綸太郎「ふたたび赤い悪夢」(講談社)-1 1992年の続き

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 ここでは探偵の役割について考えている。誤った推理で無実の人間に冤罪を押し付けることがあるのではないか、正しい推理で真犯人の私的制裁をしてもかまわないのか。事件が進展中のときに、真犯人がわかっていても、物証がないので、放置している間に別の事件を起こしたとき、探偵に道義的責任があるのではないか(事前に犯行を止める手立てをするべきだったのではないか)。まあ、そんな感じ。もちろん探偵は神に例えられたとしても、神のような無謬性はないのであって、未来の結果を予測しえないのであるから、失敗はつきものではある。それにしても失敗による被害の大きさや影響は甚大なのであって、探偵であること自身に常に懐疑的であらねばならない・・・というような理屈は延々と書き連ねることができる。こういう理屈をこねくり回していると、加害者の加害行為がどこかにいってしまうのと、犯罪にまつわる社会システムの存在を忘れるのとがあって、あまり意味はない。
 俺はロック「市民政府論」に書かれているように、上記のような個人が犯罪の摘発と被害者救済を抱えるべきではなく、専門家による集団的な対応があるべきだと思うので、こういう「後期クイーン問題」(というのだっけ。探偵小説評論界の用語はよく知らない)を問うのは意味がないと思っている。
 本書「ふたたび赤い悪夢」で、法月名探偵はセリグマン教授ではなく、文芸批評家・柄谷行人の言によって、とりあえずの復活をはたす。「探求II」をひいて、砂漠へ出よというもの。

「しかし、ここでも別の読み方が可能であろう。たとえば、モーゼ自身がカナンの地に入ることを拒んだということができないだろうか。また、モーゼがユダヤ人をエジプトから連れ出したのは、「約束の地」に導くためではなく、「砂漠」に導くためではないだろうか。このことは、いろんな角度から指摘できる。たとえば、マックス・ウェーバーの考えでは、モーゼは、ユダヤ人を、農耕定住民(奴隷であろうと主人であろうと)から、遊牧民としての在り方に戻そうとする運動を象徴している。あるいは、それを、のちにカナンの地において出現してきた預言者たちの側からみてもよい。それは、バール神――農耕神であり共同体の宗教(偶像崇拝)である――に対して、モーゼの宗教を回復するものであった。それらは、農耕定住民の共同体に反して、外部(砂漠)へと人を導く運動なのだ。ここで、砂漠とは、内と外の区別がないような交通の網目の空=間を意味する。(柄谷行人「探求 II」講談社学術文庫P285-286)」


 なるほど、名探偵が「難しいな」と口ごもるのも無理はない。そこだけを単独で読んでも、意味はほぼ不明なのだ。俺が思うには、名探偵は「探求 I」などで書かれた他者=外国人を考慮していない。双方向のコミュニケーションができない、言語を共有していない、でもそこにいる他者と出会うところが砂漠であり、内と外の区別のないような交通の網目の「空=間」なのだ。たんに「砂漠」にいってもそこで他者=外国人と出会うのでなければ、砂漠はすぐに内部しかない共同体になってしまうだろう。そのような砂漠でこそ、正義や倫理が生まれる。というような議論を柄谷がするようになったのは、もっと後になってからのこと。なので、名探偵の認識もまた1990年ころの水準にとどまる。
 とはいえ、作者はクイーンを手掛かりに正義や倫理を考えることは可能だったのだ。名探偵の躓きをそのまま描いたクイーンの「十日間の不思議」「九尾の猫」を引用するように、別のクイーンの長編を引用すればよい。でも、その長編をモチーフにした作品を作者は書いていない。すなわち、「ガラスの村」と「第八の日」。ことに前者。ニュー・イングランドの人の出入りのない山村。そこで信望の厚い老婆が殺される。容疑は、英語を喋れない東欧難民。彼がたまたま村を通過中であったので、逮捕され裁判にかけられる。人々は有罪にすることを要望し、落ち着けという判事と元軍人を糾弾する。ニュー・イングランドの村は共同体であるが、東欧難民が来る(英語を喋れない=共同体の裁判に参加できない)ことによって、村は砂漠になる。村人たちはパニックや排外主義で他者=外国人を排除することを要求する。これは手続きとしては民主主義に他ならない。民主主義を実行することが、他者=外国人を排除するショーヴィニズムになるのだ(書かれた当時のマッカーシズムがそういう民主主義)。で、それに対抗するのが強固な自由主義者。民衆、大衆の要望よりも個人の自由や権利(もちろん生命)が重要と考える人々。そこで糾弾されている東欧難民を救うために(排外主義によるジェノサイドを防ぐために)、判事と元軍人は捜査を開始する。彼らの行為は、共同体の要請によるものではなく、誰か特定の人の利益のためにでもなく、せいぜい判事という権力を使うことによって、社会(複数の共同体が交差する空間)の正義と倫理を実現するため。
 法月名探偵はこのような正義と倫理に立つことがない。砂漠や他者について考えたこともないし、出会ったこともない。そういう名探偵の苦悩は、底が浅い。苦悩も俺には表面的にみえる。なので共感できない。問題意識も共有できない。作者はクイーンの長編をモチーフにした作品が多いのだが、上にあげた「ガラスの村」「第八の日」はとりあげていない、はず。クイーンの長編には、金持ちの娘にエラリ―が社会奉仕を見せるシーンがあったりするのだが、法月探偵はしない。たぶん、都内で社会奉仕があっても彼の眼には入っていない。
 砂漠、他者=外国人を日本で認識するのは難しいと思うかもしれないが、さまざまなマイノリティと「交通」することで可能になる。
(ただし、安易な気持ちでマイノリティ集団とアクセスすると、集団を疲弊させたり、破壊したりすることになりうる。十分な注意とケアが必要。このまとめを参考に。)

togetter.com



 以下余談。解説で笠井潔は探偵の行った先の「砂漠」で内と外の区別のないような交通の網目の「空=間」で探偵小説は生き延びることができるかと問いかけているが、そのような場所でこそ「モルグ街の殺人」が起きて、デュパンという探偵が生まれた。とはいえ、そのあとの作では共同体内の事件になってしまったのであって(「盗まれた手紙」「お前が犯人だ」など)、砂漠で起きた犯罪を構想するのはとても困難。


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