odd_hatchの読書ノート

エントリーは3200を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2024/11/5

エドワード・アタイヤ「細い線」(ハヤカワ文庫) 殺人の発覚を恐れるイギリス男の焦燥。どうするかを決めるのはカントとソクラテス。

 その夕方、ピーターは憔悴しきっていた。妻の眼をかいくぐって、不倫を楽しんでいた相手を絞殺してしまったのだ。疲れてはいるのに、心は無感動で無関心。呆然としているのみ。パブで強い酒を飲もうとしていると、殺した相手の夫ウォルター(四半世紀来の友人)が入ってきた。彼はまだ何も知らない! 普段より汗を流し、表情をなくして、友人とたわいのない会話をする。友人は気づかない。
 やがて女の死体は発見される。警察の捜査は始まっても、ピーターには容疑がかからない。その状況において、ピーターの心理は通常とは違う挙動を示す。すなわち、隠していたいと告白したいの二つの衝動が同時に現れる。隠していたいという欲望は不安や不眠の訪れであり、彼があう他人の視線におびえること。秘密を一人で抱え込むことが耐え難いほどの苦痛になり、世界中から指弾されるのではないかという恐れ。その一方の告白したいという欲望はこれらの不安や不眠から解放されることであり、道徳律にのっとった「紳士(ジェントルマン)」であることだ。このふたつの欲望を同時に実現することはできないので、彼は不安と安堵を行き来する。その不安定な精神は「細い線」を乗り越えたことと表現される。犯罪者であることとそうでないことの境は、このような細い線で区切られている。違いは外見上わからないが、内面では厳密に区別され、しかもいったん乗り越えてしまったものは元に戻ることができない。そのような「線」。ただしピーターにとっての「細い線」はこのような意味を持つが、作者は別の意味を持たせている。それは全部読まないとわからないようになっている。

 面白かったのは、ピーターはひとりでいるとき、「傍観者」と名付けられた内面のもう一つの自我が現れ、ピーターにけしかけることだ。それはピーターが現在選択しようとしている行動の反対者となって表れる。隠していたいという小説の冒頭では、傍観者は「自首しろ、悪を引き受けろ」といい、自首することをほぼ決めるまでになった後半では「やめておけ、このまま隠れていろ」と命じる。フロイトのスーパーエゴやイドのようなエゴの決定を批判、否定するものとして「傍観者」が現れる。のちにピーターはカントの道徳律と至上命題を引き受けるようになる(このとき「ソクラテスの弁明」を読んで決心をつけた。当時のイギリスの中産階級の教養はこのくらいであったのだなあ)。この決定は彼個人の決断。そこに至るのは、自分の悪が決済されることなく放置されているのに、他人(殺した女の夫や会社の金を横領した経理員ら)に自分以上の罰(法的なものと内面的なものとの両方)が下っているのを見ることによって。
 さて、小説の大半はピーターの内面の葛藤を描くことに費やされる。その間、何事もおきない。友人とパブでのみ、家で妻と食事をし、ティーンエイジの息子や娘とあそび彼らの喧嘩を仲裁し、母が起こす面倒に巻き込まれ、会社の不祥事の対処に追われ……。大したことの起きない日常も、「細い線」を乗り越えたものには、異常で緊迫したいわゆる「異化」された特異な風景になる。
 自首を決心したピーターはまず妻に告白し、友人ウォルターに告白する。奇妙なことに彼らはピーターの告白を信じようとせず、撤回を進めるのだ。彼らは事実に基づいてピーターを納得させようとせず、たんに君はいいやつだからという理由で。この小説はドストエフスキー罪と罰」の換骨奪胎とみなせるのだけど、ソーニャみたいな人はいなかったのだ。そこが違うところ。後半になるとピーターはワキに退いて、告白された妻の内面にフォーカスする。それがどういう意味を持つかというと、まあラスト10ページを読んでみてくれ。
 1951年初出。とりあえず「ミステリー」の範疇である「犯罪サスペンス」になるのだろう。ドスト氏の大小説を取り上げたように、古くからある趣向の物語。江戸川乱歩が注目したのは、古いわくに込められた近代の心理にあるのだろう。緻密な文章はエンターテイメント小説というにはハイブロウ。ソクラテスやカントが説明抜きで紹介される、それぐらい知っているのが当然という態度。それを受け入れていた読者。

  


 なお、1966年に「女の中にいる他人」というタイトルで映画化。監督はなんと成瀬巳喜男

  

 ほかにもなんどかドラマ化されているという。

<追記>
 エドワード・アタイヤに関する情報が載っています。
hontama.blog.shinobi.jp