odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

柄谷行人「日本近代文学の起源」(講談社文芸文庫)-1

 初出は1980年。版を変えて何度か出た後、

「四年前に小社から「定本 柄谷行人集」が刊行されるに際して,著者は旧著を全面的に見直し,『定本 日本近代文学の起源』を完成させたのです.非常に多くの加筆がなされ,旧著とは一新された内容になっているのです(https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/6002020/top.htm)」

とのこと。あいにく定本はもっていないので、ここでは旧版を読むことにする。なので、誤読があるかもしれない。
(調べたら講談社文芸文庫は「日本近代文学の起源 原本」というタイトルで残っているらしい。同じタイトルで2種の版が流通しているのはめずらしい。)

 以下まとめてみるが、さまざまな論点が圧縮されていて、要約不可能。そのうえある一文が複数のトピックに重なっていることもあり、複数のトピックの関連もそこで意識しないといけない。丁寧に書くのであればこの数倍の枚数が必要になるだろう。こういう書き方をした人にレヴィ=ストロース(「野生の思考」)やフーコー(「臨床医学の誕生」)がいる。前掲書を読みだした時にきちんとメモを取って再構成すれば著者の考えは把握できるかと思ったが、あまりの圧縮でメモ取りを(完読も)あきらめた。それと同じことがここにもある。たぶん、圧縮することが著者の思想や思考に必須なことなので、こういう書き方になったと思う。

 凡庸な自分にとっては読み取れたことだけをメモするしかできず、漏れたところはそのまま放置するしかない。まあ仕方ない。

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第1章 風景の発見 ・・・ 風景は自明のものと思えるが、それは「発見」された。それ以前は、山水画や背景として書かれていたものは観念や意味をもっていた(山とか植物とか何かの象徴であったり歴史的事実であったり)。近代になって人間が「内面」を見つけ(ルソーの「告白録」あたり)、目の前にいる他者に冷淡になり、「外」を見ないようになったときに、「風景」が発見された。この国では明治20年代(1890年代)。この国の近代的な諸制度(憲法、議会、公共インフラ整備など)が確立してから。内面や風景の発見には抽象的思考原語の使用(この国では「言文一致」運動で獲得された新しい文体がそれにあたる)が先立つ。新しい言語が新しい概念を構成し、表現を創出する。それが達成されると、風景や内面が先にあったという認識的な転倒が起こり、起源や由来が意識されなくなる。

第2章 内面の発見 ・・・ 言文一致の運動の端緒は前島密で、近代国家確立をめざしたものらしい。この眼目は、多義的で韻律を重視する形象(漢字)の抑圧と線的な表音主義にある。言文一致というとき、話し言葉をそのまま記述するのではなく、新しい話し言葉を創出した。それは多義的世界の観念やルールを無視した「素顔」の現実をみつけることになり、「素顔」が何かを意味するものとして表れた。例えば、風景であり内面。そのような文体によって、内面それ自体が存在するかの幻影になり、客観性は知覚ではなく、数学の超越性や科学の記述によって担保される。記述の仕方に西欧的な知の本質が現れた。一度言文一致が確立し、意識されなくなるほど定着したときに内面が現れる。
(ここの科学の客観性が記述の仕方にあるという指摘がおもしろい。多義的世界の記述は指摘された博物学図鑑のみならず、コペルニクスの本やダ・ヴィンチの手記であり、ゲーテ色彩論」、ラマルク「動物哲学」にも残る。新しい記述のしかたはダーウィンメンデルに現れ、その系譜はパスカル「科学論文集」にさかのぼれる。ケプラーニュートンは読んだことがないのでスルー。ダーウィン以降でもヘッケルは古い博物学の記述と文体。)

第3章 告白という制度 ・・・ 日本の近代文学キリスト教の経由している(昭和の青年エリートがマルクス主義に熱中したように明治の青年エリートはキリスト教に熱中した。国木田、花袋、藤村、透谷など多数)。とくに主人たることを放棄し、一神に服従することで「主体」となる逆転(それによってはじかれた客体が生まれ、ただの風景を発見するようになる)。主体が生まれることで、注視する動きができ(こういう精神的転倒が青年たちに起こる)、内面・深層意識・精神・性・肉体・真理・恋愛などを発見する。性や肉体の発見は、キリスト教肉体嫌悪=精神優位が反映されている。その逆転を制度化したのが告白。近代文学は告白を文で書くことにあった(前章の言文一致の文章革命も後押し)。告白することは自分の弱さを披露することではなく、告白することで真理に達していると他人に優越的にふるまう権力意志の現れであった。
(このあとに、江戸では天皇・将軍・藩大名の権力の区別はあいまいであった。黒船来航で明確にしようとする運動が起き(この対立と明確化の運動はキリスト教の三位一体論争に似ている)、明治政府になって三者の対立は「(近代)国家」に止揚された。告白という制度で生まれた内面は、この国家権力に対峙するものであったが、権力の制度を補完する、内面化させもした。という指摘が面白かった。)

 

 読んでいてスリリングなのは、自分らが「ある」ことを不思議に思わないさまざまなもの・ことの「ある」が自明ではないとつぎつぎと明らかにすること。最初は「風景」からで、内面になり、内面・深層意識・精神・性・肉体・真理・恋愛に至る。この国ではわりと想起しやすい近世には、これらのもの・ことは自明であるところか、存在すると認識されてもいなかった。世界の構成の仕方もすでに自分らには理解しがたいやり方であった。近世が近代になるときに、逆転や転倒がおこり、それが定着したときには逆転や転倒は意識されなくなる。たとえば「意識に先立って自己がある」というのが自分らを含めた現存のひと大多数が共有しているが、逆転や転倒のさなかにあるテキストには、それが起きていることが残されている。現存の人たちはすでに逆転や転倒が定着して痕跡を発見することができないが、著者は丹念に読み取ることで見つけ、系譜やほかの事象との関連を見出す。著者が提示するテーゼが「コペルニクス的転回」を要求するものばかりであるところに驚かされる。
 そのうえ、ここで対象にしている明治20年代だけでなく、ほかの事象(近代哲学、科学、演劇など)でも同じような逆転や転倒が起きていることまで明示され、その広がりにめまいのような驚きをもつ。たぶん近代全体がこのような逆転や転倒が定着して、因果や前後の関係がみえなくなっているのだ。
 もう一つスリリングなのは、記述が探偵小説仕立てになっていること。さいしょに「○○は××といわれるが、そうではない」ととても挑発的な謎をだす。読み手がはっと緊張すると、○○は××といわれるようになった場所に連れていかれ、そうではない、順番は逆であり、隠蔽があったのだと鋭く説明する。即座に別の場所に行き、似たような○○は××の言われた現場で別の説明がある。なんども場所を変えては、由来や機序についての読み手のドクサがくつがえされる。場所の移動は突飛な感じがすることもあるが(なにしろ明治20年代から1780年頃のフランスに行ったり、1970年代のアメリカに行ったりするのだ)、説明の中から見えてこなかった系譜や並行関係が見出され(歴史ではない)、明治20年代のこの国の精神的革命があったこと(およびそれが定着してあったことが見えなくなったこと)が明らかになる。最後に再び「○○は××といわれるが、そうではない」と解かれ、それはすでに謎ではなくなっている。この記述の過程がとても探偵小説的。頭の良い人の話を聞いているだけで、自分の頭がよくなったような錯覚をすることがあるが、この読書にもしばしばそうなる。

2018/12/21 柄谷行人「日本近代文学の起源」(講談社文芸文庫)-2 1980年に続く