odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

J・リチャード・ゴット「時間旅行者のための基礎知識」(草思社)

 時間旅行(タイムトラベル)というテーマはフィクションから始まる。とりあえず元祖をウェルズ「タイム・マシン」に求めるとして、SF内の一つのジャンルになるくらいに作家と読者を魅了した。タイムトラベルにはパラドックスがあり、過去や未来に介入することで現在が変わる、しかしタイムトラベルの前後で現在が改変されてはならない(それほどに現実は強固)のであって、どうやって回避するのかという問題があった。さらに、アインシュタイン特殊相対性理論を提唱した際に、双子のパラドックスも生まれる。人生では経験できない時空間の移動は、想像力を刺激する。

 フィクションの話で済んでいるのかと思ったら、著者は大学院生のときからタイムトラベルの可能性を数学と物理学をつかって記述することを研究してきた。未来にいくには、光速の乗り物にのることで一方向にだけだが行くことが可能(技術が追い付かどうかは別として)。では過去に行くには? ある種の条件をもったブラックホールであるワームホールが過去に時間移動する可能性を示唆する。さらに宇宙ひもというアイデア素粒子のひも理論が宇宙大に広がったと思いなせえ)を加えると、ワームホールやワープドライブで過去への時間旅行が可能になるらしい。ただし、いつどの場所(とはいったいなにか)に行けるわけではなく、物理学の知見と照らしわせると、限界があるらしい(すなわち宇宙の始まりや終わりへ今(とはなにか)から旅行に行けるわけではない。この辺りの事情を著者の研究を紹介しながら、説明していく。
 加えて、宇宙のはじまりをどう考えてきたかの変遷をみる。アインシュタインの定常宇宙からハッブルの膨張宇宙になり、以後ビッグバン、インフレーション宇宙、泡宇宙と理論が広がっていく。そこに著者はタイムトラベルを加える。そうすると、なんと宇宙はタイムトラベルを通じて自分自身を創造するという。ある段階にある宇宙は宇宙ひもやワームホールをつくりだして、始原の点に行くのだ。ビッグバンを起こしたのはビッグバンによってできた宇宙そのものである。さらに、このタイムトラベルは新しいベビー宇宙をつくりだす。ということは、一度宇宙が作られると、次々と新しい宇宙を自己創造していく。宇宙はひとつではない(とはいえ、ある宇宙が創造した宇宙は、できた瞬間(とは何か)に「親」宇宙とのつながりを失うので、別の宇宙ができたことを知ることはできず、いくこともできない。


 以上のアイデアもさることながら、「異常に高いエネルギーの真空状態」「高密度の真空」という記述が出てきて面食らう。「真空」とは無ではなかったか。もちろんこれは「真空」の定義がアインシュタイン以降変わったための混乱に由来するのであるが、それにしてもあれほど真空を嫌悪した西洋の哲学からすると、このように何かを生み出す「真空」という概念が生まれたことに驚嘆する。デカルトアリストテレスなどの真空嫌悪の哲学者は何と思うだろう。
(ここで俺は埴谷雄高の「死霊」を思い出す。小説には虚体なる概念がでて、虚が実(じつ)や有(ゆう)を生み出すとされる。また「泡宇宙」も小説に登場し、この宇宙を取り巻く虚体の超宇宙から偶然に実や有の宇宙があぶくのように生まれる。本書の自己創造する宇宙は、「死霊」の泡宇宙をブラッシュアップしたもの。小説家のアイデアが物理学者によって数学と自然科学の知識で裏打ちされたように思える。埴谷は執筆中に物理学の宇宙論を勉強していたので、そこは注記しておきます。)
 ここまで大きな話になり、難解な学問となると、自分には、著者の考えが正しいのか、疑似科学なのか、トンデモなのかの判断もつかない。記述の大半は、20世紀の物理学と天文学の振り返りで、自分には特殊相対性理論の説明(ほかの啓蒙書にも出てくる説明)にはへこたれる。それを乗り越えた先の宇宙の始まりと自己創造はとても刺激的。
 著者は物理学の最先端にいながらも、映画やSFに詳しく、相対性理論やタイムトラベルの話にからめる。専門教育を受けていないものにも面白く読める技術と話術をもっている。これは西洋の学者ではよくあること。ここまで熟達の筆の持ち主が日本の学者にほとんどいないのは残念。21世紀になってノーベル賞を受賞した学者はたくさんいるが、彼らが啓蒙書を書いた例を知らない(たいていは自伝かビジネス書風の人生訓だ)。教養の差なのかなあ。

 最後の章には、「コペルニクスの原理」を使って、さまざまな事象がいつまで続くかを予測する方法が語られる。詳細は
コペルニクスの原理 - Wikipedia
 この世界に「特別な」観測者は存在しないから、観察者がみているものは特別な場合ではない。であると統計的な手法で、始まったばかりの95%にいるか、終わる直前の95%にいるかなので、ある事象が生まれてから現在までの時間の39分の1から39倍の範囲に収まることが、95%の確信度でいえるとする。なので、20万年前に誕生したホモ・サピエンスは今後5,100年から780万年まで存在できると予測できる。人間の有史でみると、様々な事象の大部分はこの原理で想定した範囲内で消滅しているそうだ。
 個別の事象の意味はかっこにいれて(ピラミッドの意味を建設当時と今で同じにするわけにはいかない)、これまでに保持・維持・継続した時間だけで、未来を予測する。これも個人の感覚に反する結論を科学が出す例になるのだろう。論の流れが釈然としないのに、結果が原理で計算された数字の中にたいてい納まるというのが癪に障る。