odd_hatchの読書ノート

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ポール・ホフマン「放浪の天才数学者エルデシュ」(草思社文庫)-2

2018/06/05 ポール・ホフマン「放浪の天才数学者エルデシュ」(草思社文庫)-1 1998年

 この本の記述は面白くて、エルデシュの生涯をそのままなぞらない。筆は現在と過去を自由に行き来し、エルデシュの少年時代のつぎには高年時代が記述される。生涯のエピソードがシャッフルされているわけで、しかしエルデシュの人格(前エントリ―にも書いたように、通常人の人格の範疇にはおさまらない)は一貫性を保っている。となると、この本はカート・ヴォネガットスローターハウス5」のようになる。なるほど、エルデシュの天衣無縫さはトラルファマドール星人に連れられていったビリーににている。でもビリーみたいにトラルファマドールの哲学を啓蒙することはなく、数学という抽象的な思考に熱中していた。これにはトラルファマドール星人は微苦笑するしかあるまい。

 さて、ヴォネガットスローターハウス5」には1945年のドレスデン爆撃という史実が語られている。この本でそれに相当するのは、1920-40年代のハンガリーだ。19世紀末にオーストリア=ハンガリー二重帝国を作っていたこの東欧は、ヨーロッパの中心であったのだが、第一次世界大戦の敗北でその地位から追放される。この本の記述から箇条書きにすると
第一次世界大戦の敗北で、70数万人の捕虜が行方不明。半数以上が死亡。
・1918/10/31無血クーデターで帝国は滅亡。民主国家ができるが、国境周辺の略奪を止めることができない。
・1919/3/21ベーラ・クンが非暴力クーデターを起こして、共産主義国家に変わる。レーニン・ボーイズたちの略奪、蛮行が起こる。
・ベーラ・クンは33日で逃亡し、軍人が独裁政権をつくる。1945年まで継続。共産主義者ユダヤ人の迫害、虐殺が起こる(死者は5000人以上らしい)。迫害、虐殺を停止させたは、ユダヤ人の封じ込める法を施行。1940年からはナチスに迎合。
・1944年、ナチスハンガリーを侵攻。437,000人のユダヤ人がアウシュビッツに送られる。残されたユダヤ人の2万人が餓死。
・1945年ソ連の傀儡政権ができ、1988年までハンガリーを支配。強制収容所の定員を満たせというスターリンの命令のために、行方不明者が多数でて、帰ってこなかった。
 1919年からの軍事政権は、ハンガリーからの亡命者を大量に生んだ。自分に近しいところでは、クラシック音楽の関係者であって、バルトークショルティオーマンディドラティら。あるいは評論活動をしていたベラ・バラージュ( 「視覚的人間」(岩波文庫)表記に従う)。 山口昌男「本の神話学」(中公文庫)には、1920-30年代のドイツの知的文化で亡命外国人の役割が大きく、ことにハンガリー人が傑出した才能をみせていたとある。ルカーチやポランニーなど。このような亡命者がたくさん出た理由に自分は無頓着であったが(前掲書にはあまり書かれていないのもある)、これほどひどい状況があったとは思わなかった。社会不安が広がっているところに、民族差別や人種差別を扇動するものがいると、あるいは狂信グループが権力を握って大衆蔑視や嫌悪を実行すると、簡単にジェノサイドが起こる。
 そのうえ、ジェノサイドの起きた地域からは大量の人口が流出し、復興には極めて長い時間がかかる。場合によっては、その土地に長らく伝えられてきた伝統や習俗が途絶える。ジェノサイドは人を何重にも殺し、忘れさせる。
 エルデシュはそのような言動をしなかったが、彼の功績をたどることは以上の歴史と問題を知ることに他ならない。ここに鈍感であってはならない。