西メイン州の田舎町。狭い町で、人々がうろちょろ。PKDの眼は、社会的な弱者に注がれる。たとえば、デレビ販売&修理店の店員でちょっと頭のあたたかい黒人スチュアートであり、1964年生まれの「海豹(ママ)」男の少年であるホッピィであり(同年におきたサリドマイド禍の子供)、追跡妄想や被害妄想などで精神分析医に通っているブルトゲルト博士である。こういう人たちが町の実力者たちの抗争や握手などをひややかにみている。彼らはいずれもマイノリティであり、負のスティグマをもっていて、社会から除け者にされている。この中でホッピィは異能の持ち主。念力を使えることができ、酩酊すると未来を幻視することができる。ブルトゲルト博士は元物理学者。彼の主導で核兵器の開発プロジェクトがおきていたが、計算ミスで1972年に大事故を起こしてしまった。元の職にいられなくなった博士は名前を変えて、この町に身を隠しているが、いつばれてリンチに会うかと恐れている。最初の4分の1まではだらだらした日常が書かれる。ホッピィの異能と復讐心がよく描かれるから、前作「火星のタイムスリップ」の繰り返しかと思ったよ。
さて、ときは1991年。突然、核戦争が起きて、国家は破滅した(政治状況や政治家などの話がまったくなくて、いきなり閃光がきらめき、土ぼこりがあたりを包むという不思議な展開)。ようやく生き延びたわずかな人類は、農村生活にもどって細々と暮らす。なにしろ電気と石油がないために、動力が一切ない。農業を再開したが放射能汚染で収穫はわずか。町を掘り起こして戦争前の資材を見つけるしかない。1970年代のエコSFでは、こういうアフターハルマゲドンものがよく書かれた。そこでは再建された小さなコミュニティは希望であり、民主主義の場になるのであるが、PKDはとてもシニカル。町の人々はコミュニティだけで凝り固まり、部外者を寄せ付けない。コミュニティの内部ではいがみ合いが日常茶飯事で、家族も解体して不倫にいそしむ。楽しみは、戦争前に最初の火星移住者としてロケットで出発したが、事故で周回軌道にのった宇宙船の乗組員が放送するディスクジョッキーのみ。彼はすでに7年もひとりきりで、地上からは支援に行けないので、いつ倒れるかわからない。地上の人々は心配している。このあたりは同時期の「パーキイ・パットの日」 The Days of Perky Pat 1963.12の拡大版。
1963年2月11日SMLA受理、1965年出版。ポール・ウィリアムズ編「フィリップ・K・ディックの世界」(ペヨトル工房)には「初期の主流小説をもとにした長編」とあるが、サンリオSF文庫の著者あとがきにはそのようなことは書いていない。また、小説の主題は著者あとがきに詳しい。
戦争という大災厄によって、以前の生活では社会的弱者だったものが、社会的強者になる。強者であったものが弱者になる。その転倒において、彼らの本生があらわになり、強者になったもののよこしまな欲望や願望が身を滅ぼしていくことになる。念力をもちガラクタ修理に異能を発揮するホッピィが典型。権力をふるうのではなく、わがままし放題になり、嫌いなもの・かつていじめたものを排除していく(マンガ・アニメ「AKIRA」の鉄男を思い浮かべるがよろし)。異能の力を持つ者は同じような異能者(双子の片方がもう一人の体の中に癒着して、テレパシー能力をもっている)に滅ぼされる。この異能者同士の闘争を知るものはほとんどいない。
人々は孤立を恐れ、価値の喪失を恐れる。すがるものは、天から降ってくる内容のない言葉の羅列。それでも外部の存在を信じられるラジオ放送に人々はすがり、孤独で饒舌な宇宙飛行士のディスクジョッキーの一挙手一投足に一喜一憂する。まあ、「高い城の男」で人々が易経占いに熱中するようなものだし、「パーキイ・パットの日」で古き良き時代の人形に熱中するようなものだ。
そして世界の破滅をもたらしたブルトゲルト博士。この人は1991年の戦争で変容したのではなく、それ以前の1972年の災厄で精神に障害を持った。この小説の中だと、気難しい妄想持ちの老人なので、PKDがあとがきでいうほど嫌いにはなれなかった。
取り留めない感想になったのは、モチーフがたくさんあり過ぎて、キャラクターがたくさんいすぎて、物語がうまく収斂していなくて、散漫な印象になったから。PKDはキャラクターの人間味とかリアルな感じを読みとってほしいと願っているが、そこまで集中できなかった。