オークランド・アスレチックスは冴えない大リーグの球団だった。資金が少なく、年棒総額はヤンキースの3分の1でしかない。しかし、1999年から数シーズン目覚ましい活躍をみせる。それまで年棒の高いスーパースターを集めれば常勝球団が作れるといわれていたが、アスレチックスはその常識を覆す。投資対効果という視点では、すばらしい成績であった。それを実現した球団の内情をゼネラル・マネージャーであるビリー・ビーンという選手としては挫折した男の視点でみる。
これを物語にした本書(2003年)はベストセラーになり、映画にもなった。
(あいにく、アスレチックスの方法を他の球団も取り入れるようになると、成績は平凡になっていく。)
ビリー以外にも興味深い人物がたくさん登場する。ビリーの片腕でデータ収集と分析を行うポール(映画ではオタクのような雰囲気)、スーパースターにはなれないと思いながらビリーらの理論で自信をつけ成績を上げる何人かの選手(当然、一方で高慢や理解不足で挫折する選手もいる)、なによりアスレチックスの活躍の20年前にデータ分析で野球評価の理論を作り上げる市井の物書き。彼らの魅力はあとがきで丸谷才一が十分に語っているので、それを読めばいい。
アスレチックスによる野球の革新は、たとえばヒットと四球に差異はない、盗塁は確率が悪いので無駄な方法、犠打はアウトを進呈するだけ、投手の責任はホームランだけでアウトとヒットは運にすぎない、というような個々の戦術レベルで知られている。なにしろ、これまでの経験や勘で評価されていたり、長年使われた指標を使うのをやめて、もっと細かなデータによる指標を選手の評価に使用する。打率は四球を除いているので意味がなく、四球を加えた出塁率が重要というのは衝撃的。実は本書にはこのような戦術のエッセンスは書かれていないので、指導者や監督の役には立たない。それらは過去10年間のデータ分析から導き出せるのだが、そのデータも開示されていないので、コーチには役に立たない。たぶん他に本がでているのだろう。
本書を面白くしているのは、野球を語るときに、これまで選手と監督の視点でみていたのを、オーナーやゼネラルマネージャーの視点に変えたこと。選手や監督の視点では「この試合」「この局面」で最適な選択をして最高のパフォーマンスをすることに向かうが、オーナーやマネージャーからするとそれは運に左右されるので、大した意味はない、重要なのはシーズンを通じたパフォーマンスとその評価にある。というのは、オーナーからすると球団の目的は収益を上げることであるが、それに利用できるリソースは限られている。ゼネラルマネージャーは限られたリソースのなかで、最高の成績を上げるように監督・コーチ・選手を配置し、共通の戦術でシーズンを通して試合ができるようにする。そうすると、戦術ではより効果的(攻撃では得点を上げやすい、守備では得点を与えにくい)であることが求める。選手ではその戦術を実行できる技術とメンタルを求める。コーチは戦術を徹底するよう選手を啓発することであり(メンタルを支援することであり)、技術の習得は個々の選手が考えていくことになる(日本のように技術を指導、むしろ調教か、することはめったにない)。
オーナーとゼネラルマネージャーの視点では、興奮するのはドラフトとトレードだ。投資対効果をあげるために、どのような選手を獲得し、放出するか。ドラフトでは将来性という評価はなく、指標の数値の高い選手(それもなるべく知られていない選手)を獲得し、同じくシーズン中のトレードでも評価の落ちた選手を高く他球団に引き取らせチームに必要な能力を持っている選手を安く獲得する。そこでは、他球団のスカウトやマネージャーとの駆け引きがある(それこそ短期間で結果のでる株式投資や骨董品のオークションみたいな感じ)。
やはりアメリカの特徴になるのは、選手や監督、コーチ、ときには自分自身の処遇にたいしてきわめてドラスティックなこと。スカウトで契約金を気前よくだすが(アスレチックスでは上限が低いが)、球団のフィロソフィーやストラテジーに合致しないとみなせば、パフォーマンスが十分ではないとみなせば、簡単にファームに落ち、解雇される。とりわけ厳しいのは、あと4日でメジャーリーグに10年在籍し年金がもらえる条件を満たせる選手に解雇を命じるところ。プライベートやその他の事情などお構いなしに判断をくだす。日本なら温情とか球団への貢献とかをいいだしそうなところに、そういう情をまったく入れない。選手もそれを受け入れる(逆にいうとFAのように自分を高く評価する球団には簡単に移籍するのだ)。球団や組織への帰属意識がとても薄い。自分の居場所や付帯する収入は自分が交渉して、獲得していく。組織や集団もそのような個人の動き方を許容し、むしろそうなるように仕向ける。
ここがアメリカと日本の野球の異なるところ。通常は戦法や技術のことが取りざたされるが、組織や集団の運営の違い、そして個人主義と集団への帰属意識の違いの方が大きい。どちらがいいかではなくて、どちらが向いているか話であり、プロレスでもそのようなことはある(TAJIRI「TAJIRIのプロレス放浪記」ベースボール・マガジン社)。本書を読んで、はたから見ている分にはアメリカの自由主義、個人主義の風通しのよさのほうがいいと思える(自分が生きていけるかということとは別)。
もちろん、ビリー・ビーンのやりかた(セイバーメトリクスというそうだ)をすべての球団が採用したわけではない。それでもデータ重視は他のスポーツにも波及している。たとえばバレーボールでは試合のデータが瞬時に入力され、監督のタブレットに集計データが表示される(ようだ、テレビ中継をみると)。テニスやバスケットボールなどでもテレビ中継で数値データが表示される。解説でも経験や勘に頼ることが少なくなっている。それに比べて日本のプロ野球中継のおそまつなこと!
さらに、この国では野球の本は選手や監督のトリビアか素人談義しかなく、ビジネスや組織論で語るものがなかったのだなあということに納得。本書を読んで感動するのは、日本の野球本が、監督や選手が書いた経験や勘や処世訓ばかりで読む気の起きないものばかりのせいかも。あと野球を分析するためのデータを集める努力をするのが面倒なのも理由(プロレスだとビッグマッチの日付、会場、対戦相手、結果を覚えるのはそれほど難しくないのだがなあ)。
これは内容とは関係ないのだが、主人公のビリー・ビーン(アスレチックスのゼネラルマネージャー)は自動車の移動中、講義や朗読のテープを聞くのを日課にしている。カーステレオ用の朗読テープが売れていたり、YouTubeに朗読の動画がアップされているのは知っていたが、彼らはこのようにして教養を高めようとしているのだね。そこには感心。それに対して日本人は、移動中には音楽を聴くしかしていなくて、どうにも(自分に振り返ってくるので、ここで略)