odd_hatchの読書ノート

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石川啄木「雲は天才である」(角川文庫)

 石川啄木にはほとんど興味はないのだが(一握の砂などのエントリー参照)、角川文庫の小説集は高校時代に読んで、なんだこりゃと思っていた。青空文庫に入っているのが分かったので、読み直してみた。うーん、少し後悔。
石川啄木「一握の砂・悲しき玩具」(青空文庫)

雲は天才である 1906 ・・・ 新田耕助21歳。怖いもの知らずの英語の代用教員。高慢な校長、太鼓持ちの教員たち、いつも膨れ面の女性教員。何もかも気に食わない。おととい即興で唱歌を作って(この時期唱歌や軍歌を皆で合唱しようという芸術運動があった)生徒に教えたら、気に入られて合唱になる。校長以下が耕助を難詰するが、憶することはない。そこに耕助を訪ねる男が来た。畏友・天野朱雲の紹介する石本俊吉。なんと片目。とても強い心意気。耕助はすっかり気に入り、快男児と呼ぶ。貧乏で生活に困り、夜逃げもままならない石本の半生に、天野との出会いの長い話。たぶん啄木最初の小説。筋を決めておくことはなく、とにかく最初の一文を書いて、その次をひねりだそうという書き方だったのだろう。最初の頃は、話題がどんどん飛んでいく。まるで連歌のような自由連想に自由な飛躍。石本の長い話を終えて、教員たちが反応を示そうというところで中断。
葬列 1906 ・・・ 東洋のギボンになりたいと望んだ青年は成績不良で、今は故郷盛岡の歴史の代用教員。散策中に体育教師につけられ、6人だけの葬列をみる。囚人のそれかと思ったが、狂人(ばか:ママ)のそれであった。青年は在りし日の狂人と狂女を思い出す。どこに着地する話かわからないまま、第一回終了。たぶん未完。青年はギボンのほか、ビスマーク、バイロン、ルーソーらに敬意と憧憬をみる。当時の青年を魅了する新思想というのはこういうものだったのだろう。あとは完全とか宇宙とか歴史とかの観念に関する取り留めない雑念。
漂白 1907 ・・・ 五月の函館の砂浜に佇む男三人。先輩の所帯じみた述懐のあと、20-23歳くらいの二人が愚痴を言いあい、酒を飲む。教員はつまらないなあ、ストライキをやったけどすぐにつぶされた、キリスト教もいいもんだ、家族のしがらみはきついよ、などをうだうだ。1907年には北海道の開拓もひと段落、監理の仕組みもできて自由の気風はなくなったと嘆く。ほお、この四半世紀後の1920年代半ばには小樽に小林多喜二伊藤整がいて、学校に事業に派閥ができるくらいになっていた。
足跡 1909 ・・・ 家族の面倒を見なければならず、しかし代用教員の給与では生活が苦しく、小説を書いてみたものの投稿先からは拒絶の返事があるばかり。校長の方針にあわないので、自分の生徒を威圧をもって接し規律正しく導いた。それでも鬱屈は激しく、辞表を提出。ああ、世の中うまくいかない、という21歳の胸中。主人公の名は異なるが、同じメンタリティの持ち主の話を延々を読んでいるようだ。胸中行き先を覚えず、ついに辞表を出す。このあとどうするの、と思いつつ、もう読む気にはなれない。

 

 最初に褒めるところ。1906-7年に書かれたのだが、すでに言文一致体の新しい文体で書くことがあたりまえになっている。1881年二葉亭四迷浮雲」が言文一致体の嚆矢だとすると、わずか四半世紀で全国の若者の文体を変え、意識せずとも使えるくらいの「日常」にしてしまった。ここまで言文一致の文体に慣れてしまうと、若者らは「候文」を書けなくなっているのではないか。柄谷行人「日本近代文学の起源」にあるように、この文体「革命」は時間をあとさきにすると意識しないのだけど、読み込めば見えてくるものなのだね(まあ、自分の場合は先人に教えてもらったから見えただけのこと)。
 もうひとつは当時の若者の心象。20世紀の若者だった時分の自分にも、21世紀の現役にも共通するところがある。社会への不満、自分を評価しない世間への敵意、家族や職場のしがらみへのいらだち、理想と行動の乖離、理想が現実化することへの妄想、行動できないことのいいわけに恐怖。啄木や小説の主人公は当時の最新思想のキリスト教社会主義に魅かれる一方で、実行できないことに鬱屈している。これは日本の青春小説の基本なのかな。ここに書かれた気分は、野間宏「暗い絵」、庄司薫「赤頭巾ちゃん気を付けて」、村上龍「コインロッカー・ベイビー」、中沢けい「海を感じる時」などと共通するように思った。
 次にけなすところ。たくさんあるぞ。まず、筋が拙いこと。どの作品も主人公が代用教員で不遇をかこっているという想念にとらわれ、ほぼ自分の考えていることしか書いていない。彼を批判する/彼の思想と議論する他人はいない。貧乏は嫌だと言いながら、無能な大人や無学の人々や女性や子供はばかにする。一方で自分を好きになった人は無条件で賛美。そういう自意識過剰。以下に書くことは山田正紀「神狩り」(角川文庫)の感想の繰り返し。自分のことをエリートで社会変革の前衛にあると思っているが、社会はそうは認めない。なので、不遇をかこつ。そこから生まれるのが、自分が異分子であるという認識で、身勝手だと思われているという感情は他者の嫌悪、生活の嫌悪に現れる。大人を罵倒するのは正しく、その正当化に勤める。なんとも鼻持ちならない若僧だ。そういう読み方をするのは自分がすでに若者ではなく、かつて自分が似たような自意識過剰を持っていたのを忘れているからに他ならない。同世代が読めば共感を得られそうだが、この拙さではそれは難しそう。
 20代前半の作。若いし、習作だから仕方ないか。このまま小説を書くのではなく、短歌に専念するようになったのは正しい選択だった。