odd_hatchの読書ノート

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ロス・マクドナルド「凶悪の浜」(創元推理文庫)

 「常夏の南カリフォルニアロサンジェルス郊外。太平洋の青い波に洗われるマリブ海浜に背中から心臓を打ち抜かれた若い女の死体が発見された。迷宮入りとなったこの事件の2年後、再び惨したいが漂着し、あい前後して別に二つの殺人事件が発生する。非常の暴力と恐喝、精神異常者とハリウッドのプロデューサー、暗黒街のボスとそれに踊らされる美男のボクサー。それらが卍巴となって錯綜するこの事件に介入するのは、私立探偵アーチャー。ハメット、チャンドラーを継いで、アメリカ正統派ハードボイルドの伝統を代表するロス・マクドナルドの代表作!(同書・裏表紙より)」

 例によってこのサマリだとわかりにくいので、時系列でまとめると、舞台は海浜ブルジョア向け水泳クラブ。ここに勤める飛び込み女性選手が失踪する。彼女の夫がカナダからやってきてクラブのマネージャーと押し問答。夫に依頼されたアーチャーはこのマネージャー(彼も失踪した女性に好意をもっていた)に雇われて、女性の後を追う。それが、2年前の射殺事件に関係あることがわかり、二人の女性がそれぞれクラブの発起人で今はハリウッドの映画プロデューサーをしている男と暗黒街のボスに関係を持っていたことも明らかになる。どうやら2年前の事件がマネージャーを含んだ三者に絡んでいるらしい。途中でアーチャーは暗黒街のボスの子分どもに叩きのめされたり、クラブの豪華なパーティに出たりと、さまざまなところを出入りする。そして、クラブのライフガードをしている聡明だが不遇な黒人の若者や、2年前に殺された娘を男手ひとつで育て裏切られたスペイン系の老人など印象深い人物とも長々としゃべりこむ。そして、カナダからやってきた夫も真犯人の謀略にひっかかってひどい目にあったところから、事件の真相に近づいていく。
 ここでも問題は現在にではなくて過去にあり、上記の人物たちがそれぞれ深いトラウマをかかえていることがわかる。冒頭の陽光まぶしいカリフォルニアの浜辺もじつのところは、どろどろとした怨念とかルサンチマンとかコンプレックスを飲み込んでいることがわかり、クライマックスが近づくにつれて、自ずと自分自身、とりわけ自分が自分にかけたトラップと向き合わなければならない。真実が割れたとしても、誰一人としてすがすがしくなることはなく、このあとの悲嘆と自己嫌悪は相当に深いものになるだろう。なにしろ愛しているからといって、それは幸福になることではないのだから。
 アーチャーは行動的というところからは程遠く、常に受身。彼のすることは、相手に話しをさせることだけ。そのカウンセリング的な探偵法というか、コミュニケーション能力がユニークなのだった。この小説で唯一人間的と思われる行動は、事件に巻き込まれた娘の愚痴を聞き、ほんの少しの共感を示すことだけ(「君はそれほど悪いことをやったわけじゃないよ」)。彼は登場人物の憑き物を落とすが、その後どうするかは自分で考えろと突き放すのだから、この「やさしさ」というのは身にしみる。
 1956年発表の長編第8作。プロットが混乱していたり、数時間の睡眠のあと2日間眠っていないようだったりと、瑕疵が目に付いてしまった。代表作ではなくて、裏カバー・サマリの会心作のほうがふさわしい。