「虐げられし人々」1861年と「罪と罰」1866年の間に書かれた短編。ドストエフスキー40代前半の作品。
いやな話 1862 ・・・ 中級官吏が上司のいびりに耐えながら食事。むかついた気分で帰宅する途中、貧しい街でにぎやかな音と灯りを見つける。深夜のそれは、部下の小役人の結婚式。貧しい人々が集まっているなかに、闖入すれば皆恐れ入るだろうといやらしい考えを持って、泥酔状態で入っていった。静まる宴。誰かがわかると、貧しい人々は精いっぱいの歓待。ぐちゃぐちゃのスピーチをした後、床に伸びて寝てしまう。結婚式を挙げた男は、上司のためにシャンパンを用意しなければならなくなり、金を集めなければならない。泥酔した上司に新婚のベッドを奪われた新妻。翌朝、自分の行動に恥じた役人は自宅に戻り、数日間自己嫌悪にまみれていたが、卑屈な小役人の姿を見出して安心したものの、不意に恥ずかしさを感じる。
「地下生活者の手記(地下室の手記)」の主人公が年を重ねるとこうなるだろうという、自意識の塊。美しいものの前で見苦しいことをするひねくれ。結婚式や葬式が不意の闖入者や泥酔者によってめちゃくちゃになる(はたから見ると祝祭的な混乱になる)のはドスト氏の定番シーンだが、その最初期のものではないかな。
夏象冬記(冬に記す夏の印象) 1863 ・・・ 1858年にペテルブルクに帰還してから1862年までのどこかでヨーロッパ(今の国でいうとドイツ、フランス、イタリア、イギリスなど)を歴訪。その時の経験を書いて雑誌の冬の号に2回連載した。とりとめのないモノローグで、何が主張かわからない。後の「作家の日記」の前駆になるのだろう。
これを読んでの印象。ロシアはヨーロッパではないこと(クシシトフ・ポミアン「ヨーロッパとは何か」平凡社ライブラリ)。そのうえ社会体制が「遅れて」いること。西ヨーロッパでは共和制・民主制になっていて、形式的には国民主権。そのうえ資本主義と貨幣経済が浸透していて、旧体制の貴族が没落し、ブルジョアが経済の実権をもっている。このような近代化はロシアにはない。そのせいか後半にはブルジョアの観察がながながと綴られ、スノッブや娯楽重視、俗物道徳などを揶揄しているが、この階層はロシアにはない。なので、ドスト氏は軽蔑を持って眺めていて、羨望は感じていない。ルイ・フィリップには言及がないので、ポピュリズムへの関心もない。これが政治的・経済的に「遅れた」地域からのものであれば、科学や技術と富の蓄積、一方の貧困や格差に目を向けるかもしれないが(1860年の万延元年遣米使節やほぼ10年後の岩倉使節団と大ちがい)、ドスト氏はみない。それを見ようとしている社会主義やサンディカリスムの運動には冷ややかな視線を向ける(詳細は「地下室の手記」に書かれる)。ドスト氏の視線はフランス革命の標語「自由・平等・友愛(米川正夫は友愛を「世界同胞」と訳す)を誤解する。自由を法の範囲内で何でも好きなことができるという孤独の自由、平等を法の前の平等、世界同胞は存在しないとする(なので、世界同胞は己のエゴの一切を社会のために犠牲に捧げなければならぬ、というように珍妙に解釈する)。この誤解は「保守主義」を名乗る統制や全体主義を求める人々と同じだ。そこにドスト氏の「反動」を見てもいいのかもしれないが、ロシアにリベラルやデモクラシーのロールモデルがないからだ(サロンのおしゃべりか、革命運動でしか話されることがなく、実践されていない)と好意的に解釈しよう。同じく、ガリバルディらのイタリアのナショナリズムも理解が及ばない。ロシアがヨーロッパではないので、ドスト氏はスイスやその他で公安や秘密警察の監視を受けるが(ドスト氏の前歴のせいかもしれない)、そのことを追求しない。ロシアはヨーロッパではないが、かつてフランスを撃退した強力な「帝国」であり、その後ろ盾を感じられる立場にドスト氏がいるためだろう。
この時代のフランスは、1848年の革命のあと、ナポレオン三世の帝政だった。その時代の見聞としては、マルクス「ルイ・ボナパルトのブリュメール十八日」に及ばない。パリの百貨店、ヴォードヴィル(オッフェンバックが大人気中)など文化や社会の変化をみている(20年前にショパンやサンドらがいたサロンはもうない)が、深い考察にはいかない。いろいろと残念。
(米川正夫はこの小品と「地下生活者の手記」でドスト氏の反・社会主義、反・共産主義を評価するのだが(米川はスターリンの同時代人なのでとうぜんだ)、おれは自由主義と民主主義の理解が怪しいところが気になる。)
タイトル「夏象冬記」はいい訳が思いつかなかった米川正夫による「超訳」。「夏草冬虫」を連想するのが欠点(なのか、ねらったのか)。たいていは「冬に記した夏の印象」と題される。
鰐 1863 ・・・ 新婚旅行に出かける前に、パサージュの見世物に行ったら、鰐に夫が飲まれてしまった! なのに、だれもが日常の続きのようにふるまう。飼い主のドイツ人夫婦は腹を裂くのを拒み、「未亡人」になった妻は社交界にでていくつもりになり、親戚の友人は「ありふれたことで、官が出る必要なし」といい、飲み込まれた本人は超越的自我(笑)を持つようになって批評家気取りになり、秘書を押し付けられた「わたし」は憤然とし・・・。ゴーゴリ「鼻」のドスト氏版。異常時に誰も動じないのはカフカ「変身」の前駆か。とりあえずの結末のあと第2部に続くはずが、書かれなかった。冗長なので爆笑には至らないうえ、ほらの風呂敷を広げるまでにはいかない。こういう方向の想像力はドスト氏向きでないように思う。
福武文庫が「ドストエフスキイ前期短篇集」をだしたことがある。収録作は、「初恋」(原題は「小さな英雄」)、「クリスマスと結婚式」、「ポルズンコフ」、「弱い心」、「鰐」の5編。うーん、俺の趣味と違うな。間の三編の代わりに「主婦」「人妻と寝台の下の夫」を入れたい。「夏象冬記」はのちのドスト氏の思想を見るのに重要な短編。でも散漫で冗長なのでお薦めできない。
「鰐 ドストエフスキー ユーモア小説集 」(講談社文芸文庫) に収録されたのは、「九通の手紙に盛られた小説」「いやな話」「人妻と寝台の下の夫」「鰐」の4編。こちらの選択の方が好ましいな。