河出書房でドストエフスキーの個人訳全集を出版した訳者による研究書(全集別巻)。「ドストエーフスキイ」の表記は訳者による。
第1部は生涯。家族や知人、友人の記録を参照しながら、生涯のできごとを記載する。今回、「貧しき人々」からだいたい発表順にドスト氏の小説と論文などを読んだ。その作品の感想でドスト氏の生涯のできごとに触れた。しかし主要五大長編は見送った。そのために、ドスト氏の40歳以降の動向をあまりつかんでいない。そこで本書で補完すると、およそ10年のシベリア時代を過ぎてペテルブルクに帰還。政治犯なので当局の監視下にあり、おいそれと職につくことができない。当面の糊口をそのぐために、兄の雑誌の編集を行う。42歳になって書いた「罪と罰」が大当たり。一方で雑誌の負債が重い(兄の急死による肩代わりをしなければならなくなる)。加えて妻の急死、頻発する癲癇発作、ギャンブル狂いと問題山積。一つの長編を書かねばならなくなり、未成年の女性速記者を雇い「賭博者」を完成。速記者と再婚するが、前妻の子供がうるさく金をせびる。そこでドスト氏と若い妻はヨーロッパ旅行。数か月で帰るつもりが4年半の長旅になる。「白痴」「悪霊」を書き上げるも、ギャンブルで無一文になること多数。ようようにしてギャンブル狂いを克服して帰国したのは50歳を過ぎてから。ここで自作を出版することと、雑誌「作家の日記」創刊を企画する。いずれも読者を多数得ることができ、ドスト氏は初めて経済的な安定を獲得。ロシアの文壇で尊敬を勝ち得、わかい大学生もドスト氏を支持する。「カラマーゾフの兄弟」を順調に書き終えたが、体はぼろぼろであり、1881年に60歳で病没。
「罪と罰」「悪霊」「カラマーゾフの兄弟」を読んだときには、その内容に圧倒されて、作者が自分のような凡庸な人間を超えた何かすごい存在のように思っていた。いっぽうでペトラシェフスキー事件とシベリア送りを過大に考えていたこともあり、どうにもドスト氏という人間のありようを把握してこなかった。本書は1958年に出たものでいささか古いが(購入した1978年ではまだ通用していた)、ここらの思い込みを解消することができた。
とはいえ、内容には不満も。ドスト氏の生涯を描くにあたって、家族、係累、知人、友人などの証言を引用する。今となっては入手難の文献もあるので、それはとても参考になる。そのためか記述はドスト氏の半径50mくらいに限定される。おかげで、ドスト氏の生きた時代がさっぱりわからない。本書にはクリミア戦争も、露土戦争も、普仏戦争も、パリ・コミューンもでてこない。農奴解放令と工業化推進の近代化がみえてこない。皇帝と貴族と官僚による帝国の政治と経済が不明。ロシアに自由主義と民主主義と社会主義が導入・普及された過程が不明。ロシア国内の革命運動がみえない。ロシアの文壇と文学の様子がわからない。ドスト氏はなるほどすごいんだけど、彼は地上を超えた天才ではなくて、ロシアの、ペテルブルクという場所と、19世紀という時代の制約を受けて、そこで考えて書いた人。なので彼のいた場所と時代がわかるようにしないと。
シェストフ「悲劇の哲学」でも、同じように場所と時代を書かずに、ドスト氏の行動性向と思想ばかりにフォーカスしていた。そういう批評は20世紀前半の流行りだったのだろうが、それだけで創作を読むでは足りない。抜け落ちるものがたくさんでてしまう。
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「分身」のところにある解説。
「ドストエーフスキイはまず、自分の創造する人物の言葉の抑揚を身につけ、それを口の中でいってみて、そのリズムに悟入する。その時はじめて、自分の主人公の外貌が浮かんでくるのであった。ドストエーフスキイの主人公たちは、言葉から生まれてくる、――それが彼の創作の共通の法則なのである。」(P55)
バフチンの指摘する「ポリフォニー」がどこから生まれてくるかがわかる指摘。たぶん誰かの証言にあるのだろうが、記載はなかった。
2019/11/25 米川正夫「ドストエーフスキイ研究」(河出書房)-2 1958年