odd_hatchの読書ノート

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フョードル・ドストエフスキー「永遠の夫」(河出書房)

 「白痴」1868年と「悪霊」1871年の間の1870年に出た中編。

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 中年(38-39歳)の独身男ヴェリチャーノフはとみに老いを感じ、ヒポコンデリー(というが記述をみるとうつ病だ)にかかっている。町で帽子に喪章をつけた男が妙に気になり、あとを追いかけていたら、なんと深夜3時にその男が自宅にやってきた(寝ている最中にやってくるというのは、スヴィドリガイロフ@罪と罰か、イワンの前に現れた悪魔@カラマーゾフの兄弟)。妻の忌中なのでこうしているという告白に愕然。すなわち9年前地方に赴任していたヴェリチャーノフは不倫をしていたが、その相手が男パーヴェル・パーヴィロヴィチの妻だったのである。妊娠したと聞いて町から逃げ出したのだが、パーヴェルは知らないらしい。この男は卑屈でありながら、なれなれしくて勤め先を探してくれという。話を聞くと、幼い娘リーザをいたぶっているらしい。ヴェリチャーノフはリーザをパーヴェルから引き離して、知り合いの家に預ける。娘はパーヴェルのいじめにあっているというのに、ヴェリチャーノフの仕打ちに喜ばない。むしろ「あの人(パーヴェル)は首をくくるわ」と不吉な予言(「ネートチカ・ネズヴァーノヴァ」やネルリ@虐げられた人々みたいな娘)。引き取られた1週間後に高熱を発して死亡してしまう(子供は虐げられるというドスト氏の主題の繰り返し)。葬儀の翌日、泥酔したパーヴェルを家に入れる。「接吻してくれ」といわれて、そうするとパーヴェルは寝込んでしまう。ふと目を開けると、パーヴェルはヴェリチャーノフを上から見下ろしていた。
 しばらくして、パーヴェルは婚約した結婚の段取りをつけるので同席してほしいと、ヴェリチャーノフに頼む。その家で老人は同意していたが、若い娘たちはパーヴェルを毛嫌いし、物笑いに。婚約者も結婚する気はないと、プレゼントの腕輪を返すようにとヴェリチャーノフに頼む。軽蔑されたパーヴェルは宴席を途中で抜け出す。ペテルブルクにもどると、娘のフィアンセという青年がやってきて、婚約を破棄しろと迫る。ヴェリチャーノフは青年が帰った後、胸の痛みに七転八倒狭心症?)。パーヴェルに解放されるが、ふと目を覚ますと、パーヴェルはカミソリでヴェリチャーノフを襲おうとしていた。数日後、青年はパヴェルは首をくくったと報告。
 二年後、すっかり復調したヴェリチャーノフは職場復帰。ある時駅で、口やかましい女と結婚したパーヴェルと再会。女にやり込められているところをみられたパーヴェルはさらに卑屈に。でも、ヴェリチャーノフの握手を拒否し、しばらく見つめあう。そのあとの行方は知れない。
 初期大江健三郎の小説にあった「迷惑な闖入者」テーマ。とてつもないエネルギーをもった闖入者が語り手の生活をぐちゃぐちゃにし、冒険に導き、新たな認識に導く。たいていの場合、闖入者は失敗して、語り手の周囲から放り出される。そういうドラマの手法を使ったもの。上のサマリーにあるように、ドスト氏の小説には類例がある。ほかには「分身」もそうか。ドスト氏の場合だと、闖入者は語り手にとても良く似ていて、しばしば区別がつかない。語り手の特徴のある部分(ことに嫌なところ)を誇張し拡大したものだ。だから語り手は闖入者を憎む。でも離れられないので、バカにするか、策を凝らして破滅に導こうとするか。ここでもヴェリチャーノフは自分の分身(なにしろ同じ女の相手だぜ)を懲らしめようと、いろいろ画策する。
 そのひとつが、パーヴェルを「永遠の夫」と名付けること。すなわち、不倫の相手は「不貞の妻」であるが、そのことを知らずに「不貞の妻」に踊らされるアホな夫を「永遠の夫」と揶揄すること。ヴェリチャーノフはリーザを自分の子どもではないかと疑う(だから熱心に預け先を探す)が、パーヴェルは微塵もそのようなそぶりをみせない。ヴェリチャーノフの揶揄と懲らしめは次第にエスカレート。
 では「永遠の夫」はそのようなバカにされるだけの存在であるかというと、そうも言いきれない。ヴェリチャーノフに転任運動をたのんだり、結婚の段取りに同席してもらったりなど依存しているようであるが、ときに不合理な行動を示したりもする。泥酔して接吻を頼むのがその例であり、ねているところを上からみおろしていたり。リーザや青年には「くびをくくる」といわれていながら、ヴェリチャーノフにかみそりで襲おうとしたり。「ネートチカ・ネズヴァーノヴァ」の父親みたいに、仕事で挫折して自己破壊・自己破滅を望むような自暴自棄な人間ではなく、なにか恐ろしいことを考えているのではないかと思わせるのだ。パーヴェルはそのことを一言もしゃべらないので、それだけに不気味。「気」を味わえない性向は、共同体の中にいる人間からは理解不能な存在。みかけは馬鹿でドジな男が妻の死から転落し、その途中で人に迷惑をかけまくる滑稽譚であるが、その人間像は恐怖の対象。内話が記述されなければ、ラスコーリニコフ(あるいはスタヴローギンは、スメルジャコフは)はパーヴェルのように見えるのかもしれない。
 最後のシーン。駅頭で再会したヴェリチャーノフはパーヴェルと握手しようとして、手を引っ込められる。

「『もしわたしが、わたしがあなたにこの手を差し出したら』と彼は左手の掌を差し出して見せた。そこには太い切り傷の痕(あと)がまざまざと残っていた。『そうしたら、あなたは握り返したことでしょうな!』と彼は血の気が失せて、わなわなとふるえる唇でつぶやいた(全集10、P481)」

  太い切り傷はパーヴェルがヴェリチャーノフを襲ったときにできたもの。その傷を見ること、痛みを思い出すことでパーヴェルがどのようなことを考えていたのか。なぜ握手する手を引っ込めたのか。20世紀であれば、ここから一編のサスペンス小説ができそう(たとえば「ゾシマ長老@カラマーゾフの兄弟」のエピソードに触発されて江戸川乱歩が「吸血鬼」の冒頭を書いたように)。