odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

アガサ・クリスティ「オリエント急行の殺人」(創元推理文庫)

 西洋各国の鉄道路線を連結してヨーロッパを横断できる長距離列車にしようという構想で作られたのが、オリエント急行。就業は1883年にさかのぼるというからとても古い。最盛期はこの小説の書かれた1930年代だそうで、カレーないしパリからイスタンブールまでをつなぐ。接続路線に乗り換えれば、アテネブカレストバグダッドまでいけたというからすごい。この小説でも冒頭はシリアで、イスタンブール経由でオリエント急行に接続できた。あいにくドイツ=オーストリア帝国バルカン半島アラブ諸国など政治的に不安定な地域を経由することや飛行機路線が各国をつなげたことで戦後は繁盛せず、2008年で廃止された。
 この長距離列車は、一列車が12-16人のりの寝台付きコンパートメントになっていて、移動する豪華ホテルという趣き。停車駅はほとんどないので、乗客は食堂車や談話室で話をする。見ず知らずの人が同じ列車に乗り合わせたという理由だけで友人になったり恋をしたり。そのせいか、戦前から長距離列車はサスペンスやミステリー映画の重要な題材だった。ヒッチコックの一連の映画(「バルカン超特急」「逃走迷路」「北北西に進路をとれ」などかな)に、「鎧なき騎士」「上海特急」から「ロシアより愛をこめて」までいろいろ思い出す。駅も西欧映画の重要な場所。出会いと別れの象徴だ。「カサブランカ」と「旅愁」と「慕情」と、ええとなんだったかなあ(なんて貧しいリストだこと)。

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 小説に戻る。イスタンブール発のオリエント急行ベオグラードを過ぎたところ(東西冷戦時代を知っているものは、大戦間期にはこの地に西欧人がこの地を観光に行けたことに驚く)で、雪のために立ち往生。その深夜、コンパートメントの乗客のひとり、アメリカの富豪が刺殺される。傷は全部で12か所で、右利き左利きなど多数。遺留品もたくさんあるが、だれと特定できない。コンパートメントの前後は車掌らが見張っていて、出入りはない。窓が破られた形跡があるが、深い雪と吹雪の中を逃げ出したようではない。となると、犯人は列車の中にいる?(同じシチュエーションのミステリーに「大空の死(「雲をつかむ死」「マダム・ジゼル殺人事件」とも)」があったな、こちらは運行中の旅客機の中)。
 鉄道会社の重役はたまたまのりあわせたポワロに事件を依頼することになる。被害者は過去アメリカで子供の誘拐殺人事件を起こした人物。証拠不十分で釈放され、被害者の一家は流産や自殺で全員が死亡するという凄惨な事態になっていた。ポワロを含めて被害者に同情する人物はいない。
 解決はもう有名すぎるので言及しない。久しぶりの再読で、時間錯誤のトリックが極めて自然だったのが目についた。これだけで、短編一つを書けそう。
 一方で、小説はとてもたんたんとした書き方。ポワロが急行にのるまでで60ページ。死体発見が100ページ目。鉄道会社の重役と医師とポワロの三人が、コンパートメントの乗客12人を個別に尋問するのが200ページまで。事件を三人で再検討し、数人をもう一回呼び出してここまでで270ページ。全員を集めて、ポワロが語る30ページがあっておしまい(ページ数は長沼弘毅訳の創元推理文庫版旧版の場合)。事件らしい事件はまるでない。取り乱した容疑者が錯乱するとか、部屋に閉じこもるとか、けんか騒ぎになるとかもない。みんなジェントルで、はしたない恰好を見せない。おまけに都会や列車内の描写がほとんどないし、うんちくも語られないという単調なストーリー。
 でもページを繰る手が止まらないのは、作者の人物描写がたくみなところにある。高額なオリエント急行に乗るというので、西洋各国の出身を異にする上流階級とその使用人が集まる。被害者のアメリカ人に、イギリス人、フランス人、亡命ロシア人、スウェーデン人、ハンガリー人、ギリシャ人など。ポワロらと交わす会話だけで、彼らの来歴や立ち居振る舞い、モラルや行動パターンが見えてくる。その会話の見事なこと。
 解決の糸口になるのは被害者がアメリカ人であること。ポワロのアメリカの見方はたぶん当時のヨーロッパに共通しているのではないかしら。このころから生産力と蓄積した資産と軍事力で疲弊した西ヨーロッパに代わって世界の指導権を持つようになった。そのことへの羨望とやっかみ、妬ましさと憧れ、憎しみと恩恵に授かりたいという欲望、そんなアンビヴァレンツな感情がコンパートメントの乗客乗員に漂っている。犯人の動機は個人的なものだが、犯行は西ヨーロッパがアメリカを象徴的に殺すことだったのかもしれない。
 それは結末の超法規的措置にも反映していると思う。アメリカの民主主義と法治主義だと、「僧正殺人事件」や「Yの悲劇」のような措置になるところを、この小説やイギリス時代のカー「帽子収集狂事件」のような措置になる。犯罪と処罰の仕方に、アメリカとイギリスではこういう対比がある。
カー「アラビアンナイトの殺人」にこの小説を茶化すセリフがあったので、興味のある人は読まれたし。)

        

 

 1974年にシドニー・ルメット監督が映画化。邦訳タイトルは「オリエント急行殺人事件」。スターがたくさん登場する豪華な映画。神経質なアンソニー・パーキンス、高飛車なローレン・バコール、当時は大根のショーン・コネリー、華麗なジャクリーン・ビセット。でも、グレタ・オルソン役のイングリッド・バーグマンと、ポワロ役のアルバート・フィニー長回しが最も見ごたえのあるところだった。もちろんヒッチコック「汚名」の長回しを思い出しながらみるのだ。あと、ポワロ役のアルバート・フィニーは原作のキャラに一番合っていると思うのだが、あいにくこの一作だけだった。おしい。早川書房編集部「アガサ・クリスティ読本」(早川書房)のアガサ・クリスティ映画(フィリップ・ジェンキンスン) によると、本人が乗り気でなかったらしい。
撮影時に、オリエント急行の列車はすでになかったので、原寸のセットを組んだというが、これがせまくて窮屈そうで、しかしいい緊張感をだしていた。