odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

アガサ・クリスティ「なぜ、エヴァンズに頼まなかったか」(ハヤカワ文庫) 子供じみた青年男女が冒険を通じて、角突き合いそして事件の大団円とともにロマンスも成就する。頼りない男をリードするのは行動的な女性。

 視力が落ちて退役することになったボビー青年は牧師館に間借りしている。ゴルフをしていたらとんでもないミスショット。ボールを探しに行くと瀕死の男性が倒れている。いまわのきわに語ったのはタイトルの言葉。転落事故で一件落着したが、事件の話を周囲にしているうちにボビーにおかしなことが起こる。ブエノスアイレスで高給の仕事に来ないかという匿名の手紙(1930年代前半は世界的な不況)が届くし、ピクニックで飲んだコーヒーに混ぜられたモルヒネで危うく命をなくすところ。見舞いに来た幼馴染の伯爵令嬢フランキーに愚痴ると、それは犯罪が進行中なのよと鋭いところを見せる。
 そこで、死人を調べるとどうも別人らしい。なので、二人は転落事故との現場に来てしかも死者と関係のありそうなバッシントン―フレンチ家に潜り込む。邸宅の前で自動車事故を偽装して中にはいろうというのだ。バッシントンーフレンチ家には、モルヒネ中毒のヘンリーとその妻シルヴィア、ヘンリーの才たけた弟ロジャーがいる。ヘンリーにはかかりつけの医師ニコルソン博士が出入りし、モルヒネを処方していた。ニコルソン博士の家には妻モイラがいるが、彼女もモルヒネか何かの中毒らしく、ニコルソン家に監禁されて治療をうけているよう。しばらくたったら、ヘンリーはある日、密室の書斎で拳銃自殺していた。発砲音がしてすぐに皆で部屋に駆け込んだので、出入りは不可能。そのうえ、モイラも失踪してしまう。

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 ここらへんはスパイ小説というよりも、アッパークラスのひまな若い人たちの冗談と冒険の境のわからない動きだね。ボビーとフランキーが友人たちの助けを借りて大掛かりなジョークをするというのは、アッパークラスの伝統なのかな。クリスピン「消えた玩具屋」でも寄宿制の私立大学のアッパークラス出身の学生が大暴れするし、私立大学(ああ、イギリスには国立大学は少なくとも当時はなかった)にはコメディを演じるクラブがあって長い伝統がある。モンティ・パイソンはその出。1930年代の深刻な不況は、アッパークラスといえども逃れるすべはなかったけど、そこは読者に浮世の憂さを忘れさせるためのもの。ボビーの父の牧師は鷹揚なものだし、フランキーの両親も娘の無軌道な金の使い道に口を挟まない。なにしろ上の策略のために自動車を数台一括購入するのだぜ。
 さて、容疑はバッシントンーフレンチ家に集中する一方、死者の正体もわかってくる。がんに侵されて余命いくばくもないと悟った大富豪が遺産を妻に贈るという遺言書を書いた翌日自殺していた。遺産を受け取った夫人は南フランスに隠遁して音信不通。死者は富豪の遺言書サインに立ち会った人であった。となると、事件の全体は遺産の詐取しようという陰謀? ボビーが第一級容疑者を尾行していると、フランキーにすぐに来いという手紙が届く。疑いもなく追いかけると、二人は罠にかかってしまった。廃屋の一室にロープでしばりつけられた二人。事件の全貌は解明できたものの、さあどうやって脱出できるのか。
 子供じみた青年男女が冒険を通じて、角突き合いそして事件の大団円とともにロマンスも成就するという、英国の伝統的な冒険小説。ミステリーで名をはせた作家の筆になるので、事件の不可思議さ(ダイイングメッセージと密室殺人)や複雑さ(複数の一人二役)の設定と謎解きはちゃんと合理的に解かれる。
 こういうスクリューボールコメディはクイーンもカーも書いているものだが(前者の「ペントハウスの謎」、後者はほとんどがそう)、男の作家が1930-50年代に書くと、男性優位になってしまう。事件を引っ掻き回すのは女性であるが、女性はたいてい子供っぽくて無鉄砲で直観に優れていても頭はよくなくて、美貌の持ち主であるが力はなくて、失敗しては後悔する。男はそれをフォーローする役目で、女性の無軌道な行動とその失敗のしりぬぐいを買って出て、最後には知恵と力を誇示することになる。まあ、そういうマッチョな時代だった。
 ところが、このクリスティの1934年作では、男性のほうが頭が弱く、行動力もない。そこで女性が先を走ることで、事件を引っ掻き回しいち早く事件の真相をみぬき、犯人と対決する。頼られるばかり、人の注意をひきつけるばかりが女性ではないのですよ、と宣言している。自立していて、男性の世話は受けるのもするのも拒否、リスクも負う代わりに主張は全部通すという女性探偵が生まれるのは1980年代になってからだろうが、この作のフランキーは彼女らの精神的な祖母にあたる。クリスティの作品をフェミニズムの視点で読むことになるとは思わなかった(という感想は自分が男性優位の立場にあることを表しているなあ)。