odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

アガサ・クリスティ「ヒッコリー・ロードの殺人」(ハヤカワ文庫)

 ポアロは秘書のミス・レモン(そんな人いたんだ! ちなみにこのころヘイスティングスとはしばらく会っていないとのこと)のミスに驚く。聞くと、姉が仕事をしている学生寮(主に学生を対象にした私設の賄付きの寮。大学が作ったのものではない)で窃盗が頻繁に起きている。リュックサック、電球、指輪、聴診器、スカーフ、ホウ酸などの雑多な安物。そのうえジャマイカの女子大生のノートにインクがかけられ読めなくなってしまう。寮の経営者に詰められて、姉ハバート夫人は大弱り。そこでポアロは寮生たちに話を聞くことになった。警察に届けることを進めると、寮生は動揺する。そして、この窃盗事件のいくつかを告白した女性がモルヒネを摂取して「自殺」してしまった。薬剤師だからありうるとされたが、遺書のおかしさに気付いて、殺人事件に切り替わって警察が捜査を開始する。

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 クリスティの小説では、互いに関係のない人たちが一堂に会するまでが自然でうまいのだが、ここでもそう。それは学生寮という場所を選んだことが成功の理由。なるほど1955年(初出年)にはイギリスももはや戦後ではなく、世界各地から高等教育を受けに人々は集まる(ただし冷戦を反映して、東欧・ロシアからは来ないし、ドイツ・イタリア・日本などの敗戦国も除外されている)。フランス、アメリカ、ジャマイカ、西アフリカ(とはどこか)、トルコの学生がいる。国内の人でも社会人になってから入学する人もいる。というわけで、ここには複数の国籍をもち、男女がいて、20歳から30代前半までの独身者が生活をしている。なので、多様な人々がごく自然にいることになるのだ(のちの「バートラム・ホテルにて」もホテルという場所にそういう多様性をみた)。
 そういう行きずりの人たちではあっても、恋愛が起きることもあれば、角つきあうこともあれば、偏見と思い込みにまみれることもあれば、と共同生活は波風立たずともうまくいくわけではない。ジャマイカや西アフリカ出身者、あるいは女性はマジョリティの「善意」にイラつくし、無知と偏見に悩むこともある。こういう振る舞いや気分が会話だけで髣髴としてくる。クリスティの優れた文章の力。読むことが楽しい。
(似たようなイギリスの独身寮の事件に、フェラーズ「私が見たと蠅がいう」がある。登場人物の多彩さ、会話の楽しさでクリスティが上回る。)
 殺された女性は寮生のひとりと婚約したばかりなのに自殺する理由がわからないし、寮内で起きる窃盗事件を告白していたし、と事件の構図はよくわからない。ポアロは窃盗事件の起きた順番に固執するばかりで、殺人には一向に興味を示さない。そして警察の家宅捜査を受けて、自室に大量のブランデーの空き瓶を隠していた気難しい経営者も殺されるにいたる。さらに、もう一人の寮生が文鎮で撲殺される。
 うまいなあと思うのは、殺人事件と同時にもう一つの事件も進行していること。これもまた「学生寮」というちょっと特殊な場所にふさわしいし、時節柄にもあっている。クリスティの小説では、狭い範囲で起きているとてもプライベートな事柄が、世界的な行動につながっているという例があって、これもそのひとつ。なるほどスパイ小説も書いているだけあって、海外旅行を頻繁に行っているだけあって、クリスティの国際感覚はするどい(クイーンやカーより敏感だったのではないか)。犯人の意外性はそれほどないのだが、殺人ではないもう一つの事件の構図が明確になる過程と推理が見事だった。
 クリスティを読むほどに、小説や描写の見事さ、意外な解決は、1940-50年代の作品が優れていると思っているが、それを裏付ける佳品。