odd_hatchの読書ノート

エントリーは2800を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2022/10/06

福吉勝男「ヘーゲルに還る」(中公新書)

 ヘーゲルは高校の倫理社会の教科書くらいのことしかしらない。難解そうなので、これまで手にしたことはなかった。本書はヘーゲル市民社会論、政治哲学を論じているとのことなので読むことにした。かなり構えてしまったが、著者による図解はとてもわかりやすい。

 ヘーゲル(1770-1831,61歳没)はベートーヴェンの同時代人。若い時にフランス革命を知り、ナポレオンの侵攻に怯え、プロシャの伸張に脅かされた。ベートーヴェンは巨大なオーストリア帝国の中で音楽を創作したので権力の圧を直接受けることは少なかったが、ヘーゲルは成長途中のプロシャの大学教授なので権力の圧は強かったに違いないと推測する。本書では1820年の「法・権利の哲学(通常の邦訳は「法哲学」とのこと)」ともとになった1817-1831の講義録を検討しているが、講義の際にはリベラルな主張であったのが、出版された「法・権利の哲学」ではプロイセン王政の復古主義を唱えているという。その事情を慮れば、上のようなことが言えるに違いない(と素人が断言)。ナポレオン失脚後のメッテルニヒ体制で、王政復古の反動が起きたとき、プロシャ内部ではウィーン体制の反対運動がおき、ヘーゲルもそれに近しい所にいた。この運動が反ユダヤ主義テロリズムを志向したとなると、ヘーゲルも自分にかかりそうな火の粉を避ける手立てはしただろう。
 素人読者がヘーゲルがどうのこうのといってもしょうがないし、複雑な議論をまとめるのも困難なので、以下は気づいたことのメモ。

市民社会
1.人格、権利、家族、意志、
2.主体、道徳、市民社会、自己反省
3.真理、倫理、国家、理念
の発展形態をとるという。なるほど、これはマルクスだ。それぞれの段の3つめだけの発展を論述したのがフリードリヒ・エンゲルス「家族・私有財産・国家の起源」(岩波文庫)というわけか。

ヘーゲルが言うには、道徳と倫理は異なる。道徳は個人の意思に由来し(カントだね)、倫理は機構の中で生きる人間の態度決定のあり方、なんだそうだ。ここは「道徳を共同体的規範として、倫理を「自由」という義務にかかわる意味で使う(柄谷行人「倫理21」(平凡社)-1 )」で自分は考えたい。

・最初に「人格」がでてくる。まず個人は所有者であり、所有は「自由」の現れであるという。この説明はロックだね。同時に他者との関わりを主に経済活動と労働によって行う。職業を経由して「(周囲から高い評価を受ける)ひとかどの人物」になることで、個人の自立や具体的人間の形成を目するものだという。ここがわかりにくいのだが、深井智朗「プロテスタンティズム」(中公新書)-2を参照するとはっきりする。この目標はプロテスタンティズムの倫理であるのだ。職業を通じてというのも宗教が要請すること。で、市民は職業団体の成員となることで市民社会の構成員になる。そういえばドイツは徒弟制度があり、都市ごとの職業団体が全国的な連携ネットワークをもっているのだった。
(このような「ひとかどの人物」になれないものは、職を持たないか職業団体に加入できないので、人格の形成や個人の自立に失敗していることになる。すなわちアーレントのいうモッブ。「ひとかどの人物」になれるかなれないかの努力、落胆、自己嫌悪などの感情はトーマス・マン「ブッデンブローク家の人々」によく書かれている。ことに、三代目のトーマスとクリスチャンの兄弟において。考え方から生活様式まで。)
(「人格」は上のような規定であるから、他人に損壊されたり侵害されたりしてはならないのだ。だから「脅迫」「名誉棄損」「誹謗中傷」が罪であり、社会や国家によって罰せられる犯罪に当たる根拠になるのだ。このあとの市民革命で「人権」も他人が侵害してはいけなくなり、21世紀には「人体」も他人が侵害してはならない規範と考えられるようになっている。)
2021/10/28 米本昌平「バイオポリティクス」(中公新書)-2 2006年

・産業の発達で貧困者や脱落者がでて格差が生じる。この問題は市民社会では解決できないので、国家が担当する。そこで市民社会と職業団体も国家の成員になる。そこでヘーゲルは、議会・立法・君主などの国家の機能を説明する。具体的な議論は200年前の社会を前提にしているので割愛してよい。ヘーゲル市民社会は個人の自立・市民的倫理・自由競争からなるというが、これはロックやスミスの議論を見ておけばよい。付け加えたのは生産における分業で個人が社会から疎外されるという点(産業革命がドイツでは未発達であることを思えば、これは慧眼)。でも資本主義は未成熟なので、ここもマルクスの議論やエンゲルスのレポートみておけばよい。ヘーゲルは貧困問題の解決を海外交易と植民地政策で行えるとしている。イギリスとアメリカの事例をみているのか。植民地政策はアーレントのようにレイシズム全体主義を生む契機になった。

 という具合に、ヘーゲル単体で読むと難解きわまりないのだが、これまでに読んできたロック、マルクスアーレントウェーバーらの考えを外挿することで腑に落ちた。本書の第2章市民社会の分析は今でも有効な視点を持っていると思えるのに(マルクスのように経済がないとか、アーレントのようにレイシズム分析がないとか、モッブや大衆の概念がないとかの突込みはありうる)、第3・4章の国家になると眠たくなるのは、国家が市民社会の延長にあるという考えに同意できないから。国家は市民社会から生まれたことはないし、国家が市民社会を大事にすることはない(むしろ敵対する)。ヘーゲルが考えるような個人の自立や倫理の確立を促すような政策を国家がとることはない。ヘーゲルがみたい正-反-合の弁証法は社会では起きていないのだ。ヘーゲルの国家論は夢想に近い。著者はヘーゲルの国家論や自由論を補完する議論としてロールズの正義論やハーバーマスの生活世界論を検討するが、別の文脈でそれらを見たほうが良い。
 ヘーゲルは気になっていたが、こと政治哲学・市民社会論はヘーゲルより後の本を参照したほうがよいな。ヘーゲルの不足を埋める努力はマルクスの天才にしてもうまくいっていないのを見ると、素人が手を出せるような手合いではないな。ハイデガーから考えると愛国主義に絡めとられるように、ヘーゲルから考えると全体主義に落ち込みそう。いずれも個人の自立や市民的倫理の獲得には縁の遠い思想だ。18-19世紀のドイツの後進性やプロテスタンティズムの影響を見るときには参考になりそう。

 マルクスヘーゲルの「法の哲学」批判の文章を書いているんだ。「ヘーゲル法哲学批判序説」。文庫で2つの訳がでている。気になるが、どうしよう。(追記。読んだ。

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 あと「エンチクロペディ」でヘーゲルは「個人と社会の一体性を芸術・宗教・哲学において自覚する」そこで「主観的精神から客観的精神をへて絶対的精神に到達する」といっているという。なるほどドイツの音楽評論、特に19世紀のもの、はヘーゲルの考えを繰り返していたのか。以下の本のわからなさはヘーゲル由来だったのね。
エドゥアルド・ハンスリック「音楽美論」(岩波文庫) 1854年
ヘルムート・プレスナー「ドイツロマン主義とナチズム」(講談社学術文庫)-2
テオドール・アドルノ「ベートーヴェン 音楽の哲学」(作品社)