odd_hatchの読書ノート

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フョードル・ドストエフスキー「虐げられし人々」(河出書房)-2 ネルリのありかたはワルコフスキー公爵の信条と表裏一体。互いの信条を裏返しにしたのが相手であり、ふたりは鏡像関係にある。

2020/02/04 フョードル・ドストエフスキー「虐げられし人々」(河出書房)-1 1861年

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 このような三角関係の物語と同時進行するのが、貧しい娘ネルリ(米川正夫訳)の薄幸な生涯。
 新進作家の「わたし」はペテルブルグで犬を連れた老人が物乞いをし、ある朝、行き倒れになるのを目撃する。数日後、祖父の死の様子を知りたいと「わたし」の家に12・3歳の娘が訪れる。この寒空に防寒服も靴下もない。癇の強い娘(発熱しやすく、癲癇持ちで、不整脈あり)を不憫に思った「わたし」は娘の居場所を探す。探し当てた先は、養母による虐待(言葉、体罰、ネグレクトなどの複合)があった。友人の情報屋がネルリを養母からてばなさせ(弱みをにぎっているらしい)、自分の家に住まわせることにする。ときに「わたし」に愛を告げ(いずれ結婚したいといいだす)、ときに「わたし」を嫌って家出を繰り返し、訪ねてくる友人に悪態をつきもするという問題行動を繰り返す。独身の「わたし」はネルリの養育先を探すが、なかなかうまくいかず、ネルリが落ち着くにつれて、二人の暮らしも板についてくるのである。転機になるのは、「わたし」の部屋にワルコフスキー公爵が訪ねてきたとき。ネルリは公爵に敵意をしめし、おびえる。それから体調を崩しがちになり、次第に衰弱する。イフネーメフ家と公爵の係争が決着し、イフネーメフがネルリを養子に向かえる決断をしたとき、すでに14歳になっていたネルリは衰弱していて、医師もすることがないと嘆いていた。最後、世の中の誰をも憎んでいたようなネルリも、和解し、関係者に感謝をのべて旅立ったのであった。
 「虐げられし人々」はイフメーネフの家のものより、むしろこのネルリであるのではないか。なぜならかつては工場を持っていた祖父が事業に失敗してヨーロッパを放浪したとき、母とネルリは祖父の逆鱗にふれて、資産を失い、ペテルブルグに戻ってきたときには物乞いをするしかない。祖父と母はたがいに相手を憎みながら死去して、未成年のネルリは一人町に取り残され、貧しい家庭に引き取られても、そこではネグレクトと虐待のコンボ。さいわい「わたし」に救出されたのであるが、それがなければ世界に和解をのぞむ言葉を(だれもきかずに)残して逝ってしまったにちがいない。
 ここではセイフティネットの不備を指摘すことはやめておいて(19世紀の帝政ロシアにはのぞむべくもない)、ネルリの心理について。この癇の強い娘は感情の起伏が激しく、怒りをコントロールできない。それはもちろん親の愛情を経験していないことが大きな理由であろう。それでも特長をみいだせば、彼女は世界とうまくつきあえない。過剰に突き放すか(ひきこもるか)、過剰にべったりとつきまとうか。自分の価値を低く見ていて、金や愛を大事なものと考えず、自己犠牲をすることで世界の中に居場所を確保しようとする。適応ができない個性がここにある。
 振り返れば、このネルリのありかたはワルコフスキー公爵の信条と表裏一体。互いの信条を裏返しにしたのが相手であり、ふたりは鏡像関係にある。ネルリが公爵を見たときに、おびえ敵意を示したのは、以上のような関係にあるからであろう(エピローグにおいてさらにふかい関係が明らかにされる)。
 侯爵とネルリを典型にすると、この小説の登場人物のほとんどは同じように世界と折り合いをつけるのが困難な人たちがおおい。経営に失敗してひっ迫した不機嫌なイフメーネフ老、年下のならずものを放っておけないと愛情をしめすナターシャ、犬だけを共にする客死したスミス老人(ネルリの祖父)に、祖父と和解できなかったネルリの母、ネグレクトと虐待を繰り返すアルコール依存症のネルリの養母。なるほど帝政封建国家や勃興期の資本主義は人々に厳しい。でもとりわけこの人たちに逆風がまとわるのは、彼らの側もまた社会や世界との協調ができない「エゴイズム」を機能させたからではないか。そのような「エゴイズム」を機能させないとならないほど「地下室@地下生活者の手記」の暮らしは厳しいのである。


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2020/01/31 フョードル・ドストエフスキー「虐げられし人々」(河出書房)-3 1861年