カート・キャノンはニューヨーク・バウアリの街の私立探偵。トニと結婚して数か月目。トニがベッドの中でパーカーと一緒にいるのを見つけた。以来、カートは探偵の免許を取り上げられ、アルコール漬けになる。一日中飲んだくれている30歳の男にも、探偵を頼む連中はいる。警察は彼らの訴えを聞いてくれないから。そこでカートはいやいやながらの探偵をすることになうる。
エド・マクベインが別名で書いた短編集。これ一冊だけ(「82分署」シリーズがヒットして手が回らなくなったのだ)。なぜエントリーにいれるかというと、都筑道夫の翻訳だから。雑誌に載せたときには人気がでて、パスティーシュを書くまでになる。
幽霊は死なず ・・・ 安酒場で飲んでいるところに、うらぶれた中年男が息子の薬物中毒を直してくれと頼む。邪見に追い払うと、ドアを開けた直後にピストルで撃たれた。服を探って名前と住所を覚える。やりたくない探偵をカートは行わなければならない。仕事をうけるつもりはないのに、カートは捜索を行う。薬物中毒を克服したいのにできない男の焦燥。
死人には夢がない ・・・ 愚連隊が町の店をゆすりにかかっている。拒否した店の店主が首を切られて殺された。カートに美女が復讐を依頼する。話をきくだけならと、バーに行くと若僧がにやにや笑っている。因縁を返したついでに、町の愚連隊の掃除にかかる。いやいやながらの探偵。でも考えてみれば、若僧を半殺しにしたら、警察がだまっちゃいないな。やはりこれは治外法権地域が舞台の西部劇。
フレディはそこにいた ・・・ 17歳の娘が望まぬ妊娠をした。相手を決して口にしない。そして殺される。町ののらくらな若者を聞きこむと、フレディの名が浮かび上がる。娘はフレディと定刻にデートしていた。でもフレディはみつからない。フレディはどこにいる。未成年の妊娠、その先の事情。当時ではやりきれないが、今のアメリカはそのような娘を学校はできるだけ受け入れようとする。
善人と死人と ・・・ 知り合いのルンペンが打たれて死んだ。その前には、中国人のルンペンが殺されている。ニューヨークのチャイナタウンを調査する。強面であっても、チャイナタウンでは白人は余所者。思わぬ抵抗にあう。これは21世紀ではかぎりなくアウトなストーリー。
死んでるおれは誰だろう ・・・ 新聞にカート・キャノンが死んだという記事が出た。監察医を問いつめると、ギャングがカートを殺したがっているので、適当なルンペンを指さしたためという。カートはギャングのありかを探ろうとする。カートは銃で撃たれて重傷。でも、すぐにバウアリの街をほっつき歩く。
おれもサンタクロースだぞ ・・・ 福祉事務所の小切手(たぶん生活保護)が盗まれている。配達日にポストの前に頑張っている老人が殺されてしまった。カートは小切手の受取人を一人ずつあたってみる。盗難犯が「意外な犯人」。ディケンズの「クリスマス・キャロル」のようなハッピーエンドのクリスマスストーリー。
抱かれにきた女 ・・・ トニと再会した。パーカーとはうまくいっていない、よりをもどしたいという。トニの金で身ぎれいにし、アルコールを抜いて、再就職しようと意気込む。トニはプレゼントを用意するといってきた。いそいそとホテルに行って待っていたもの。ここでカートはトニへの未練や桎梏から解放される。手厳しいものではあったが。
街には拳固の雨がふる ・・・ ルンペンが殴り殺される事件が続く。クソ暑い夏の夜、カートは待ち伏せをする。これ以前の短編と異なるのは、カートが自分から他人に語りかけ、自発的に事件の解決に取り組むところ。あまつさえ警察と話をするまでになる。徹底的に受け身で孤独なのがカートだったのに。ルンペン仲間と酒盛りまでするとなると、ちょっと違う。
お約束になるのは、カートは妻とその不倫相手のこと(および自分の暴力)を思い出すこと。感情の爆発が結局自分だけを破滅に追い込むことになり、そのことをたんに反芻し、そのたびに嫌悪と喪失感をもつ。過去のできごとを合理化したり昇華したりできない不安定な感情の時期にあって、そこにアルコールを耽溺するものだから、さらに嫌悪と喪失感が亢進されて、自縄自縛の罠に取り込まれてしまう。PKDの主人公たちもそういう気分を濃厚にもっていた。
たいていの場合は、孤独と酒は自分と向き合うだけなのだが、元私立探偵という職業とその名声はカートを頼みにする人を生み出すことになる。カートは他人にかかわるのができない(同じ失敗を繰り返す恐れがあるから)。でも、なんども懇願され、新たな被害が出ると、重い腰をあげることになる。この気分の転換はわかるようでわかりにくい。個人の感情よりも正義(ここでは基本的人権の尊重)を優先し、それを行動原理にしているのだろう。その割には暴力の行使にためらいがなく、他者への共感は薄い。リュー・アーチャーよりさらに金のない暮らしをしているせいか。
そのうえ、アルコール耽溺による貧困はルンペン連中に取り込まれることになる。その共同体(といえるほどの連帯やつながりはまずない。せいぜい顔見知りであるくらい)は社会からは見えないもの、存在しないものとされる。だからカートが巻き込まれたり直接受けたりする暴力や犯罪に対して、警察機能が働かない。捜査の対象にもならない(最後の一編を除く)。カートの捜査や探偵は、警察の影響の範囲外にある。なので、社会や制度の庇護を受けないし、支援もない。その代り社会の義務やルールの外にいることができる。カートは治外法権の場所で、法の適用範囲外の実力を行使できる。そんな場所は書かれた時期には存在しない。それだから、この小説はミステリの形式にのってはいるが、ファンタジーなのだ。
ただかつてのアメリカには、カートのような法の外にいる人間が正義を実行できる場所があった。白人の移住から西部開拓が終わるまでの、国家のシステムが開拓に追い付いていない時代。カートは西部劇であれば、ヒーローになれる。この国家と社会のシステムが町と生活の隅々まで貫徹されている場所では、カートは前科持ちとアルコール耽溺というアンチ・ヒーローの、アウトローの悲哀をスティグマに持たなければならない。
この国では任侠物の主人公であるわけだ。正義や法よりも、悲哀(のような感傷)と人情が優先される社会では、カートのようなアンチヒーローがもてはやされる。アメリカでは8編で終了したのに、この国の読者はさらに続編を要求したのもそんなところにありそう。
かつて読んだときには自分もカートの悲哀や人情に共感したものだが、高年になって読み返すと、カートの女性蔑視やDV傾向が気になって、のめりこめなかった。ハードボイルドのマチズモは時に女性の奉仕を要求するようで、爽快になれない(短編ごとに美女がルンペンのカートを誘惑するというお約束があるのがね。ホークス監督の映画「三つ数えろ」の蠱惑的なシーンやケイン「郵便配達は二度ベルを鳴らす」のようなストーリーを作るものであるのはわかってはいても、ねえ)。