odd_hatchの読書ノート

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カール・マルクス「経済学・哲学草稿」(光文社古典文庫)-2

2022/06/14 カール・マルクス「経済学・哲学草稿」(光文社古典文庫)-1 1932年の続き

 後半。
・第3草稿「社会的存在としての人間」。難物。ここでマルクスの関心領域が3つあることがわかる。ひとつは自然(そのものではなく「自然哲学」のほうがあっている)。自然は人間の非有機的な肉体なのだが、労働が人間から自然を疎外する。もうひとつは経済。疎外された労働から転化した私有財産が資本になり、商品を生産して拡大し、個々の人間とは無関係に拡大し続ける(人間の疎外が継続する)。みっつめは幻想的な領域(「内面に位置する意識の領域」)。国家、宗教、法、貨幣など。これも人間を疎外する原因になっている。マルクスの考えでは「私有財産」が三つの領域を結びつける。人間の本質は自然であるが、それが労働によって疎外されている。その具体的な現われが「私有財産」であるから、本質の回復・人間性の解放には「私有財産」を廃棄しなければならない。そうして「社会的な人間となって、自然な生活となり、自然が人間化される」。そこに至った状態を「社会主義」ということができる。

超訳するように、この章をまとめてしまった。26歳のカール君は、国民経済学をロマン主義といっていたが、君の考えもずいぶんロマン主義的だねえ。「自然」「社会」という重要なタームはほとんど説明なしで書いているので(ヘーゲルフォイエルバッハの考えに基づいた哲学用語なのかも。当時の人には自明だったのかもしれない)、読者の物理現実にある「自然」や「社会」との違いがわからない。マルクスの記述でも概念として使うことと具体を示すことを区別しないで、そのまま使っているので、指示するものがあいまいになってしまう。それは前の論文にある「私有財産」「資本家」「労働者」と同じ。なので、この記述は哲学言葉で書かれた理念や概念の話なのか、経済実態の説明の話なのか、私有財産廃棄の政治的プログラムの話なのか、しっかり区別されない。この論文はとても魅力的なのだが、記述と用語のあいまいさによって誤読が生じそう。
 くわえてマルクスは自然と人間が豊かに結び付き、交流しているというイメージを強調するのだが、進化論を知っている俺はそういう状態が過去歴史的に一度もなかったと考えているので、受け入れがたい。自然と人間(と社会)が交流している原初状態を設定するのは筋の悪い議論になると思う。原始や神話時代に自然と人間が調和していたと考えるのは、マルクスの時代のロマン主義の反映だろう。

・「経哲草稿」にでてくる「自然」「社会」「労働」「私有財産」「資本家」「労働者」は自然哲学の領域ではイマジナリーな用語。指し示している対象は読者の物理現実にはない。そういうロマン主義的な思想体系を作っているのだ(たぶんヘーゲルの影響大)。そのようなイマジナリーな概念を経済活動の説明に使うので、そこでも議論は抽象化される。なにしろ、マルクスの理論では企業の財務諸表を作れないし、経営にも役立たない。マクロ経済の分析にも使えない。労働価値説も給与計算や原価計算に使えない(ただし労働者の権利保護のための立法には強く反映している)。マルクスの「社会主義」は疎外された労働とそれを蓄積した私有財産が廃棄された後におのずとできる人間の社会的活動なので、資本主義経済のただなかにいるものにはどのようになるのか見当はつかない。過去に実現したこともない。それなのに「社会主義」があるかのように成立条件や構造を検討するという転倒をする研究がある。「共産」も、私有財産が廃棄された後に成立する共同財産(だから「共産」)であるので、どのような形態であるのかも不明。

・というのも、この章でカール君がいうには「共産主義否定の否定という形をとる肯定」だから。なにか新規なアイデアを提示するのではなく、既存の学問や概念、運動の「批判」という否定の否定として提示する。なにかがあるのだろうが、それを示すことはできず、その周辺でうろうろと否定していき、その行為の中でおぼろげになにかがかいま見える。そこらへんがロマン主義の思考・記述法。
(あと「人間にとって他人こそが最大の富(P161)」はカント由来になるのかも。ただ「貧困が受動的な絆となって人間は他人を欲求する(P161)」は21世紀の極東の事情からすると違った。貧困になるとこの国では孤立してしまう。)

・「ヘーゲル弁証法と哲学一般の批判」はスルー(読み取れません)。マルクスの「自然」「人間」「労働」「疎外」概念がヘーゲル由来なのはわかりました。これを日常言語と思って読むと誤解になるわけですね。

・「欲求と窮乏」「分業」「お金」は取り留めのないメモ。「疎外された労働」「私有財産」の廃棄の先にはお金=貨幣の謎があることに気づいた記録といえるかしら。

 

 後年の著作で詳述されるのであまり参考にならない記事が5割、ヘーゲルの解説が2割、若い才能のほとばしりときらめきが3割(当社調べ)。「資本論」にまとめられるマルクスの考えをある程度把握していて、かつ独特で晦渋な文体に慣れていることが必要。この小さな本はマルクスの入り口ではなくて、ある程度読んだ後になってから取りかかるほうがよい。
 自分はマルクス経済学に魅力を感じないので、さほど興味を持たないが、本書にあってマルクスが十分に展開しなかったことには惹かれる。特に「疎外された労働」とそれが廃棄された後の「社会主義」概念。十分に展開されていない考えがどうなるかと想像する楽しみがある。とくに国家、宗教、法などの「内面に位置する意識の領域」。これは後年の著作やマルクス主義には書かれていないことなので、とても新鮮。同じ思いになった人は多数いたと見えて、1960年代に「経哲草稿」「ドイデ」を重要なものとして読む「初期マルクス」の評価があった。アルチュセールとかね(あってるかな)。俺の思い込みだが、どうもうまくいかなかったのではないかしら。たぶん、青年マルクスがいう「共産主義否定の否定という形をとる肯定」を実態・実体あるものとして読んだせいではないか。それでは、この青くさく充分に展開していない議論の「可能性の中心」をとらえられそうにない。(自分のことは棚に上げます。俺には「可能性の中心」はわかりません。)

 

追記 2021/12/8

「(マックス・ヴェーバーの)受苦者の連帯というメッセージは、実は、若きマルクスの『経済学・哲学草稿』(1844年)に見出されるのであり、フォイエルバッハに由来するテーゼです。(山之内靖「マックス・ヴェーバー入門」岩波新書P232)」

 そんなのあったんですか!