odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

トーマス・マン「魔の山」(筑摩書房)第1・2章 なんでもないただの人(ダス・マン)がヨーロッパの縮図社会に闖入する

 ハンブルグに生まれたハンス・カストルプ(1880年代前半の生まれ)は、企業の就職を控えまた一年志願兵になるまえに、いとこがいるスイスのサナトリウムを訪問した。とくに体調不良には見えないが、貧血もちなのを心配しての配慮だった。ハンスとしては3週間ほどいればよいと思っていたのだが。
 ハンス・カストルプが他の小説の主人公と異なるのは、かれは芸術家志向ではないこと。創作することでドイツ精神を造形しようとか、精神を高めようとか、民族運動に参加しようとかを一切考えない。とりあえず象戦術を学んでいるが、それを選んで極めようとしたわけではない。後見人が用意している道を進むには、その知識が必要であるだろうからという程度の意識だ。なので23歳になっても、トニオ・クレーゲルのような強い意志を持って何かをなそうということはしない。また他の小説の男性キャラクターのように強い性欲を持っているわけでもない。だから他人を圧倒しよう降伏させようという意志も生まれない。こういう受け身で、将来の道を開いていこうとせず、とりあえずのいまを余裕をもって過ごしたいというモラトリアム期の青年だ。作者は彼を「凡庸」と評価する。
 そのような「凡庸」に満足している若者が、スイスのサナトリウムに行く。この療養所がハンスがいた社会と異なるのは、病気(作中で書かれないが結核)に関係しているものを優先する特別な閉鎖社会であること。当時不治の病とされた病気であり、かつ伝染性なので、生産を主とする社会からは彼らは防疫の名目で疎外されている。さらに、このサナトリウムにはヨーロッパ中の患者とその家族が来ている(家族は村や街のホテルや民宿に泊まり、日々通う)。複数の言語が飛び交い、社会階層がおおむね上流であるがときに中産階級もいる。さながらヨーロッパの縮図。ハンブルグという都市で、学校と後見人が経営している会社しか知らない無垢なものが初めてヨーロッパと出会う。そこにはロシア人を軽蔑するというレイシズムもある。
 しかしサナトリウムは入居できるものを制限しているし、入居者は健康である者を受け入れない。彼らの仲間に入るには、ハンス自身も変容しなければならない。
 以前は岩波文庫で読んだが、今回はkindleで購入した佐藤晃一訳(世界文学大系54「魔の山」(筑摩書房)昭和三十四年八月十五日発行)。高橋義孝訳の新潮文庫を手元に置いてときに参照した。人名他の固有名は佐藤訳によっているが、セテムブリーニだけは人口に膾炙しているものにした(佐藤訳では「ゼテムブリーニ」)。

 気になる記述を見つけた。

「南ドイツでは「ハンス・カルスト」という架空の人名が使われた。カルストは鍬の種類のことで、ハンスはよくあるドイツ人の名前である。ハンス・カルストというのは「鍬を持った男」、あるいは「鍬を持った農民」というような意味であろう。しかしこの時代(マルティン・ルターがいた1500年前後)の学者たちの間では、自分と違う考えを持った者たちの愚かさを批判するときに使われた。(略)それは「無教養な農民のようだ」ということである。(深井智朗「プロテスタンティズム」(中公新書)P70」

 とても博識な知識人トーマス・マンはこのことを知っていたと思いたくなり、ドイツ人の読者はハンス・カストルプの名前から「ハンス・カルスト」をすぐに連想していただろうと想像するのは楽しい。そうすると「魔の山」は「主人公がさまざまな体験を通して内面的に成長していく過程を描く小説(wiki)」ではないことを暗喩しているし、読者もそれを了解していたのではないか。

 

 以下サマリー。「」のなかは章の中の小見出し
第1章 
「到着」 ・・・ トゥンダー・アンド・ヴィルムス商会の実習をまじかに控えたハンス・カストルプ青年(23歳なのが2-2でわかる)が、スイス・ダヴォスのサナトリウムに向かう。いとこのヨアヒム・チームセンが結核で-入院しているのを見舞うのだ。せいぜい3週間もいることになるだろうとハンスは思うが、チームセンはサナトリウムの時間の流れは下界とは違うという。必然的に博識になり、シニカルになる。
(姓のカストルプはギリシャ神話に登場する双子の兄弟の一人カストルに由来。そこに目をつけたベーレンス顧問官はいつもいっしょのハンスとヨアヒムを「カストルポルックス」と揶揄する。)

「三十四号室」 ・・・ サナトリウム「ベルクホーフ」に到着したハンスは34号室をあてがわれる。前日にアメリカ娘が死亡し、そのあと消毒されたところだ。ハンスは8月の標高1600mのサナトリウムにつくなり、「足が冷える、顔はとても熱い、寒い」という。
(マン先生、さっそく伏線を貼りまくる。サナトリウムでハンスを出迎えたのは「びっこの男」(ママ)。「ベニスに死す」と同じく、地獄めぐりが始まったのである。)

「レストランにて」 ・・・ レストランで昼食。ハンスは食欲がないのに気づき、とても眠い。チームセンは「いつでられるかわからない」。ドクトル・クロコフスキーを紹介される。医師はハンスに「患者として来られたのでしょう?」と尋ねる。ハンスは疲れて眠り、何度も夢を見る。

第2章 
「洗礼盤と二つの姿を持つ祖父について」 ・・・ ハンスの前半生。父は商会を経営していたが、ハンスが5-7歳になるまでに両親は死んでしまった。祖父に預けられたが、ハンスが年若のうちに病没した。ハンスにとって市は珍しくなく、取り乱したりしない。
(この経歴は「トニオ・クレーゲル」と同じ。そして19世紀ドイツのプチブル階級の生活を描いている。新規モードの工芸品や美術品に囲まれた「芸術的」雰囲気のある暮らしだ。)

ティーナッベル家にて。およびハンス・カストルプの精神状態に関して」 ・・・ 祖父も死んだが、ティーナッペル領事が法廷後見人になって遺産を管理し、そこで裕福な暮らしをする。ハンスは天才ではないが馬鹿でもなく、孤独でもなければ活力があるわけでもなく、なりたいものがわからない。仕事を愛せない。そういう芸術家ではなく、モラトリアムにある凡庸な若者。貧血症で疲労しがちなので、チームセンを見舞うという名目で療養に行かせた。帰れば一年志願兵になるはずである。
(仕事を愛せないのはプロテスタンティズムの倫理に背く態度。なので、ハンスは23歳にもなって一人前になっていない若者、モラトリアムの子なのである。)


 トーマス・マン自身と大江健三郎による解説があった(「小説の方法」P44)

「このハンス・カストルプについてはマン自身が、講演「自作について」において《聖盤探求者、とくにペルスヴァル》に比較していることが思いだされなければならない。《その遍歴の始めには好んで「馬鹿者」、「大馬鹿」、「罪のない馬鹿者」と呼ばれ》るぺルスヴァル。ハンス・カストルプはやはりアルレッキーノ型の道化として、このペルスヴァルにつらなる、ジムプリッィシムスの血統なのである(新潮社・刊)。/さてハンス・カストルプは、かれの探究する聖盤を見出したのだったか?サナトリウムでのそれこそ千年王国めいた経験、時のとまっているような日々の経験を一挙に断ち切られて、戦場へ向かったハンス・カストルプは?《聖盤、彼はそれを見出せなくても、彼が高地から下界へ、ヨーロッパの破局の中へひきずり込まれる前に、死に接近した夢の中で彼はやはりそれを予感するのです。聖盤、それは人間の理念であり、病気と死についての最も深い知識を通り抜けた向う側にある未来の人間性という構想です》。」
 


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2023/05/10 トーマス・マン「魔の山」(岩波文庫)第3章 肺病は情熱不足と性欲抑圧を暗喩する病 1924年に続く