odd_hatchの読書ノート

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トーマス・マン「魔の山」(筑摩書房)第3章 肺病は情熱不足と性欲抑圧を暗喩する病

2023/05/11 トーマス・マン「魔の山」(岩波文庫)第1・2章 なんでもないただの人(ダス・マン)がヨーロッパの縮図社会に闖入する 1924年の続き

 

 トーマス・マンの小説で最も人口に膾炙したもの。発表は1924年だが、執筆に12年をかけたという。
 この療養所がハンスがいた社会と異なるのは、病気(作中で書かれないが結核)に関係しているものを優先する特別な閉鎖社会であること。当時不治の病とされた病気であり、かつ伝染性なので、生産を主とする社会からは彼らは防疫の名目で疎外されている。
 一方で、この病気は不治であることからさまざまな隠喩が付け加えられる。

「2.結核と癌は19世紀半ばまでは体を徐々にむしばむ似たような病気を考えられた。異なるのは、
1)結核は目に見える体の変化がある。色白、咳、吐血など。エネルギーが充溢する。肉体の軟化、消耗とみなせる。時間の病気。生をせきたて、霊化する。体の上部の霊的な場所が侵される病気で口にしやすく、魂の病気とみなされる。下流界層の貧困と零落の病気。環境の変化でよくなるとされる。結核による死は安楽死、繊細で美しい死(19世紀文学を参照)。/3.結核と癌の比較の続き。1)結核は情熱過多、性欲過剰。2)がんは情熱不足、性欲抑圧。これは最近の傾向であって、19世紀では結核の隠喩は後者であった。がんと情熱の抑圧を結びつけた人に、フロイトとヴィルヘルム・ライヒがいる。病気が進むにつれて、患者は断念・諦念を持つようになり、それによって美しくなるとされる。結核の場合にはセクシーにもなる。」
スーザン・ソンタグ「隠喩としての病」(みすず書房)

 この小説にでてくる結核の患者はソンタグが活写したとおりの聖性と穢れをもっている。くわえて博識という特性も加えられている。これはもちろん偏見であり、患者や家族を苦しませる呪いの言葉だ。今ではやっていけない偏見や差別の序長である。そこを理解したうえで、20世紀初頭の病気観がどのように展開されているかを読み取ろう。
 ハンスも「無知な人間は健康で平凡でなければならないし、病気は人間を上品にし、賢明にし、特別なものにしなければならない」と考えている。ただ彼らは高山にある療養所にいるので、世俗のできごとや政治からは切り離されている。彼らの境遇と特性を合わせると、とても高踏的な議論になるのではないか。世俗の世界でぼんやりと生きてきた若者は太刀打ちできないのではないか。


第3章 
「厳粛なしかめ面」 ・・・ ハンスは目を覚まし髭を剃る。サナトリウムにいる人たちの物音に耳を澄ます。
(タイトルは他人と関わりたくないとおもうハンスがとった表情。伝染性の疾患を持つ人たちに対する嫌悪感も含まれているだろう。)

「朝食」 ・・・ 食堂で朝食をとっていると、ベーレンス院長が来てハンスに「あなたは立派な患者になれる」と予言する。

「からかい。臨終の聖体拝領。中断された上機嫌」 ・・・ 散歩する一団「片肺クラブ」に出あう。すれ違う時にひゅうという気胸の音が聞こえ、ハンスは不審に思う。チームセンはここでは患者は非常に自由だ、ひまですることがないから。死ぬことは秘密にされ、死体は隠される。でもときに会うこともあるといって、臨終の聖体拝領が行われる際、患者の少女は正装した聖職者(カソリック)を見て悲鳴を上げた。ハンスは死にかけの人は神聖で高貴なのにと批難する。
(最後のWW1の戦闘シーンで、ハンスのこの考えを思い出そう。)

「悪魔(Satana)」 ・・・ 30-40歳くらいのイタリア人紳士を紹介される。名をセテムブリーニ。高名な文学者の追悼文を書いたという文学者でユマニスト。女好き、饒舌、軽薄、悪口雑言を言う男だ。
(悪魔に歌を書いたことがあるのでハンスは悪魔を連想したが、セテムブリーニの風貌や行動性向はたしかに悪魔的。地獄の案内人という役どころか。)

「頭の冴え」 ・・・ 昼食までは安静療法の時間。ハンスも寝椅子を借りてまどろむ。そのあと昼食。ハンスは食欲がなく、ほてっている。
(時間の移り変わりについてチームセンとハンスが議論した。チームセンは心理的な時間を語り、ハンスは時計が刻む物理的な時間を語るのでかみ合わない。ハンスは哲学をしたい気分になったのを「頭の冴え」という。当時のドイツでは中等以上の教育を受ける者にとって哲学をするのは当たり前で、できて当然のことだった。)

「いいすぎ」 ・・・ 昼は散歩。ダヴォス村はサナトリウムの患者と家族向けのビジネスがたくさんある。ハンスは動悸が激しく、疲れてしまう。

「むろん、女だ」 ・・・ 夕食になって食堂に行く。ハンスはドアの閉まる音に苛立たしくなるほどの音響過敏になる。部屋に戻ると、少し血を吐いたが気にしない。
(タイトルはマナーしらずのドアの締め方をしたものに向けたハンスの独り言。)

「アルビン氏」 ・・・ タイトルの重症患者がナイフやピストルを安静ホールに持ち込んで、他の患者を震え上がらせる。すでに3年入所していて直る見込みがないと思い込み、何もすることがないからとニヒリズムにあるのだ。
ドストエフスキー「白痴」のイッポリートのパロディ? これも後のヨアヒムの行動や最後のWW1の戦闘シーンで思いだそう。)

「悪魔が失敬な提案をする」 ・・・ 体調が悪くなってハンスは眠りたくて仕方がない。夕食で他人に会うのは嫌だが、特に会いたくないセテムブリーニがわざわざテーブルまで来て「すぐに引き上げたほうがよい」と失敬な提案をされる。部屋に戻ったハンスはサナトリウムの住人たちが登場する奇怪な夢を見て、あせびっしょりになる。

 

 これでようやく第1日目が終了。細部を丁寧に書き込むこと(食事のメニューや服装などをすべて書くなど)で時間の流れが変わる。ヨアヒム・チームセンは療養所の時間は最短の単位が月だと言っているが、この小説もそう。読者のふだんの時間とは異なる時間を読書中に体験する。
 ここまで(全体の8分の1)では誰が重要なキャラクターかわからないが、あらすじや紹介文などでまずセテムブリーニは特別な人物であることが分かっている。その男が中年の悪魔的風貌の持ち主であるところから、彼はハンスにとってのメフィストフェレスやヴィルジリオの役割を果たすのではないかと妄想する。
 午後になるとハンスは急速に体調が悪化する。でも彼は自分が健康であると思い込み、療養所の人たちとは異なると考えている。ハンスにスティグマが貼りついていくのは、サナトリウムの住人に加わるための通過儀礼にあたる。


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2023/05/09 トーマス・マン「魔の山」(岩波文庫)第4章 ただの人ハンスが入会儀式を完了する 1924年に続く