odd_hatchの読書ノート

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トーマス・マン「トニオ・クレーゲル」(岩波文庫)-2 教養市民社会に「遅れてきた青年」トニオは苦悩して郷愁にふける

2023/05/19 トーマス・マン「トニオ・クレーゲル」(岩波文庫)-1 ドイツの教養主義者は実業が嫌い、庶民のたくましい肉体がうとましい 1903年の続き

 

 トニオの不幸は、ゲーテやシラーやベートーヴェンの時代はとうに過ぎ、ワーグナー(1813-1883)やブラームス(1833-1897)、ヨハン・シュトラウス(1826-1899)らが亡くなってから、あるいは創作が激減してからドイツに生まれたこと。ドイツ文化の最良の時(それはハプスブルグ帝国の最盛期に重なる)はすでに終わっていて、そのことを自覚せずにはいられない「遅れてきた青年」であることだ。19世紀の芸術家は市民社会の中で特定の階層やディレッタントにむけて創作していればよかったが、資本主義が隆盛して大衆社会になり芸術を大衆が消費するようになると、芸術の規則や鑑賞方法を共有しない層からいわれのない(と芸術家が考える)批判が浴びせられるようになる。あるいは大衆の興味をひかないものは消費対象から外される。芸術家が作ったものは売れないし、正当に(と芸術家が考える規範で)評価されない。それはトニオのような憂愁な人を孤独にさせる。
 トニオの憂鬱のもうひとつ(8で書かれる)は、詩人=芸術家は人生と文学が乖離していると考えるところ。ハンスやインゲボルグに象徴される俗物は、公明・快活・素朴・正則・無邪気・秩序正しさ・神とも世とも和らげられ・幸福をもっている。トニオのような創作者はそれらの人生や生活を持たない。神にも世間にも愛されない、愛を断念しなければならない存在である。それらに近寄ろうとしても、人生や生活は創作者をはねつけるであろう。その奇矯な性格や行動性向や諧謔や嘲笑などによって。
(この論も変。人生か文学かという二者択一の問題設定は創作者の側が勝手に設定している他人との壁なのじゃないか。ATフィールドみたいなもの。トニオは14歳の同級生ハンスにシラー「ドン・カルロス」を読むように勧め(1)、成人したハンスにはもう読まなくてよいという(8)。主人公の王様の苦悩は生活者であるハンスには不要だからという理由で。そんなこというなよ。イギリスではトニオの好きな「ハムレット」を素人が集まって上演し、キャラクターやセリフを喧々諤々に議論しているのだ。教養や哲学を知的エリートが独占しようとするのはドイツロマン派によくある選民思想だ。というかドイツにはサロンや素人劇場の歴史がなかったのかなあ。)
 トニオは芸術家や創作者の理想をとても高く設定する。創作物に対してとても強い責任感をもっている。一方で、大衆や職人の制作物を低くみていて、職業を軽んじる。そこから間違っているのであって、彼の苦悩には共感できない。生活から疎外されているというのなら、まず家事をしてみれば。料理を作って他人を喜ばす体験を積めば、生活や人生と創作はつながると思うよ。逆に言うと、共同体で協力してやることや家事をやらないですむ上流階級にいる男なので、芸術と生活は分断されるのだ。
<参考エントリー>
2017/02/20 サルトル/ボーヴォワール「文学は何ができるか」(河出書房) 1964年

 別の視点でみる。クラスの優等生で人気ものハンスとインゲボルグがカップルになって結婚するというのはその町では羨むべきできごとで垂涎の的になる。かわりに、彼らは地元の共同体にずっと居続けることを運命付けられる。一生、同じ町で同じ人と暮らす。共同体の制約は多く、自由になることはむずかしい。一方詩人のトニオは町に縛り付けられることなく世界中を気楽に動き回ることができる。いずれの暮らしを良しとするか。政治から自由であることは、国家や共同体の義務から解放される代わりに、国家や共同体の支援を受けられないことを意味する。事実、トニオは係累はいないし、実家もない。故郷に帰ってもトニオを知る人はいない。幼馴染も彼とは疎遠で、むしろ付き合いするのはうっとうしい。自分がそこにいて心地よい場所はリザベタのアトリエの中だけで、リザベタとの関係も恋愛には発展しない。トニオは愛を断念しているから。かわりにトニオは芸術を理解する人々の中で名声を得て、好きなところに好きな時にひとりで行ける自由を得た。そうすると、自由人であるトニオの憂鬱と郷愁と生活への嫉妬は、創作家・芸術家の苦悩から生まれたというより、政治からの自由と自分のことは全部自分でする責任とのはざまで生まれたとみてもよい。
(以上のトニオの憂愁は、30年後のトーマス・マン自身が追体験することになった。1933年の「リヒャルト・ワーグナーの苦悩と偉大」講演以降、ナチスの攻撃対象になり、ドイツから亡命することになった。創作者で芸術家のマンは、どこの共同体にも所属しなくてもよい自由人であるので、地域共同体から放逐されたのだった。ナチス崩壊後、マンはドイツに戻ろうとしたが、強い反対と抗議にあって帰国することを断念する。マンは国への愛を断念させられたとみなせる。)
 トニオは芸術家の葛藤や疎外を、芸術家vs大衆、創作vs人生という対立から生じるとみているが、俺からすると対立の設定が誤っていると思う。彼は自己分析をするより社会分析をしたほうがよかったのではないかな。トニオの問題は普遍的ではなく、19世紀末ドイツの地方的な問題なのだと思う。
(とはいえ、本人の意志とは関係なく共同体から疎外されて孤独になる行動性向もトニオにある。他人とのコミュニケーションが苦手な人は疎外や孤独はどうしようもなくまとわりつくものは。それは芸術家にだけ生じるのではなく、他の職業についている人にもあるので、ここでもやはり芸術家の問題と設定するのは誤りだろう。)
(トニオの苦悩がいまひとつピンとこないのは、この列島では文学ができたときから大衆社会になっていて、ノスタルジーにふけったり理想化したりするような「市民社会」がなかったため。芸術家と鑑賞者の公平で平等な関係(というのも幻想だが)があった時代はついになかった。むりやりいえば平安時代の宮廷文化が似ているかもしれないが、数百人程度の貴族で作っていたものを近代と結びつけるのは苦しい。というわけで、トニオがかくありたいと思うようなゲーテやシラーのような先達を列島で見出すことはできない。この国ではトニオが苦しんでいる芸術と大衆の乖離は問題の焦点なのではなく、前提であって、その先でどうあるかをずっと議論している。そういう視点からすると、個人の内面で問題を解決しようとするトニオの方法を採用することはできない。)
2015/09/07 小田実「日本の知識人」(講談社文庫)-1
2015/09/04 小田実「日本の知識人」(講談社文庫)-2
2011/10/07 桜井哲夫「社会主義の終焉」(講談社学術文庫)

 苦悩して閉じこもり、悔恨と郷愁にふけるトニオの姿は、「ベニスに死す」のアッシェンバッハや、「ファウスト博士」のゼレヌス・ツァイトプローム(語り手)そっくり。トニオが老けると彼らのように破滅を期待するようになるのだろう。1903年刊行。

 


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