1945年からの占領期に、占領軍は日本の近代化を阻むものとして地主と大規模土地所有制を解体することにした。そのため、小作による農民運動がさかんになった(山口武秀「常東から三里塚へ」(三一新書))。なので当時は革新政党の支持が高かった。では新しい農村経営はいかにあるべきかという問いが出て、歴史学者は江戸時代からの地主と小作性の研究に精を出す。地主制とは、太閤検地の意味とは、小作は奴隷だったかなどの論争があった。戦前から農村史研究を行ってきた著者はこのような問題意識で、江戸時代初期17世紀の農村(とその経営者である大名)のことを書く(ちなみに土地分配が終えると、日本の農家は保守的になり自民党支持に鞍替えし、現在にいたる)。
というわけで本書は農本主義、とくに米の栽培に焦点を当てて記述する。しかし、網野善彦「日本社会の歴史」(岩波新書)「日本の歴史をよみなおす」ちくま学芸文庫などを読んだ後に、1960年代に書かれた本書を読むとどうにも違和感。複数家族が一軒家に住み、米作に取り組み、村の管理と監視があって、地主と代官と藩の過酷な年貢収奪に怯え、一年中の窮乏にあえぐ。そういう農民、農村像は本当にあったことなのか。そうではないだろう、というのが網野などを経由しての感想。農家は田植えや刈入れなどの労働集約的な期間は共同作業をしただろうが、それ以外は家ごとにあるいは個人ごとに好きなこと(畑作、狩猟採集、漁猟、手工芸品の作製、流通、賃労働など)をやっていた。米作だけに頼ることのリスク分配もあったし、それ以外の収入の道があったので多角的経営をしていた。生涯にわたって貧乏であったわけではなく、豊作の年もあったし、ほかにも喜びや楽しみはあった。本書は農村や農民の見方が一面的過ぎるのではない? さまざまな法度の生活の細部までの指示書ができたが、これは教育のためというよりは、実態がそうでなかったための通達や指導程度に見るべき。武家諸法度があったからといって武士が道に基づく生活をしていたわけではないように。なので、本書の内容は見直しが必要だと思う。
(本書には、石川県の海沿いの村と山間部の村を比較して、開けた海沿いの町が生産性が高い、その理由はその村の農家が自立した経営になっているから、としている。これは土地の生産性も観ないといけないのじゃない。副業があるとか、名簿に載らない季節労働者を雇えるとか理由はいろいろ考えられる。本書ではその検討がないので正誤を判断できない。)
徳川幕府ができて、大名を統制するシステムは完成。大名も領地内の住民管理の体制も完成。幕人の職務もマニュアル化。幕府の考えは大名が反乱する可能性をいかになくすかということ。思いついたのは、大名に江戸で散財(主に参勤交代と普請で)させ、領地内に投資ができないようにすること。技術の流出を妨げ生産性向上を行わせないこと。いずれも功を奏し、元禄時代に江戸がバブル経済の趣きになっても地方の大名は財政難で苦しんだ。
そうなる理由のひとつは、貨幣獲得の手段が限られていたこと。藩外に売れる商品はコメのみであるが、大阪の米問屋以外の流通網はない。藩同士の流通も制限されていた。なので藩には金がないし溜まらない。
以上の状況は日本に資本主義と産業革命が起こらなかった理由のひとつになるな。
藩は税収増加のために米作のできる農地を増やそうとする。治水工事を行う。農業用水をいくつもの集落で使うようになったので、治水管理が必要。その過程で、郷・庄の農村共同体が解体されて、村になった。村は生活・生産単位なので生産性向上には寄与したが、郷や庄のもっている自治能力はなくなる。結果、代官や藩との対決・抗議ができなくなる。解決のために将軍の力を借りること(越訴:オッソ)があったが、将軍の権力を強化することになったので、村の力は次第に弱体化する(佐倉惣五郎の将軍への直訴は越訴の例。これが義民伝説になったのは、自由民権運動のころという)。