odd_hatchの読書ノート

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エミール・ガボリオ「オルシバルの殺人事件」(KINDLE)牟野素人訳 19世紀の新聞小説は犯罪トリックより人間関係が反転するのに興味を見出す

 1867年にでたルコック探偵ものの第3長編。原題 Le Crime d'Orcivalからすると「オルシヴァルの犯罪」のほうがただしそうだが、ここでは別タイトルになっている。過去には明治22年・丸亭素人訳『大疑獄』、昭和4年田中早苗訳『河畔の悲劇』がでて、おそらくこの牟野素人訳が三度目の邦訳だろう。

 186*年7月9日(木)。パリ近郊の村オルシバルで密漁を生業とする親子がトレモレル伯爵邸の敷地で女性の死体を発見する。どうやら伯爵夫人であり、現場のあり様から伯爵も殺されているものと推測された。屋敷に通報しようとしたら、なぜか使用人は全員いなかった。そこで村長に通報することになり、予審判事や医師が事件を解明しようとする。奇妙なのは使用人が屋敷にいるなという命令をだしていたことだけではなく、伯爵や夫人の部屋がめちゃくちゃに荒らされていたことだった。そこで嫌疑は素行の悪い密漁師とただ一人屋敷に戻ってきた使用人ガスパンとされた。ことにガスパンはからっけつなのに小金を持っていて、その由来を説明できない。とりあえず二人を拘束したのだが、そこに中年の冴えない男がやってきて、現場を再調査。すると見逃していたことが明らかになる。すなわち犯行の行われた時に壊れたと思しき時計は針が動かされていて、時刻は別なのである(当時はゼンマイ式)。使用されたように見せかけたベッドは実は使われていない。この推理と調査の鬼こそルコック探偵その人。そこで人は過去の話をするようになり、夫人が伯爵と結婚する前に、クレマン・ソブルニーと結婚していたのだが、あいにく夫は若くして病死してしまった。そこで色気に目のない伯爵が強引に結婚したのだった。夫婦仲は良好ではない。というのも、村長の妻に匿名の手紙が届き、それを読んだ村長の妻は気絶してしまった。というのも娘のロランス嬢が妊娠して男に捨てられ絶望して自殺しようというのである。妊娠させた男は伯爵であるらしい。そこまで聞いてルコックは伯爵こそが真犯人、事件は彼による偽装と看破した。
 ここまでで全体の3分の1。20世紀の探偵小説なら10ぺージで片づけることを懇切丁寧に書く。ソープオペラのない時代ではエンタメはこのくらいのテンポで十分だったのだ(たとえばドストエフスキー罪と罰」が犯行が完了するまでに200ページ近くかけるようなもの)。でも21世紀に読むにはとてもしんどい。いくつかの探偵小説の趣向(針を動かした時計、偽装された部屋の荒しなど)がこれほど古くまでさかのぼれるかというのせいぜい気を惹かれるところ。
 そこまでわかってしまってはと、村の重鎮は夫人のロマンスを語りだす。トレモレル伯爵は稀代の放蕩息子。莫大な財産をわずかな期間で使い果たし、ついに債権者が差し押さえに来る。もはやこれまでとピストル片手に自殺すると意気込んだが、結局は愛人ジョニー・ファンシーの家に駆けこむしかない。そこに古い友人クレマン・ソブルニーが来て、トレモレルの窮状を聞き僕がなんとかしようと実業家として成功したソブルニーが手を差し伸べた。ソブルニーはパリ中を駆け回って債務を処理していたが、ソブルニーの家で閑を持て余すトレモレルは同じように退屈しているソブルニーの妻ベルトの誘惑を受ける。ジョニー・ファンシーも駆けつけ、そのうえソブルニーは100万フランの縁談を持ち掛け、トレモレルはすっかり金に魅了される。ここで三角関係はもつれにもつれ、トレモレルはベルトの計画に巻き込まれざるを得ない。すなわち、夫ソブルニーを毒殺し、遺産を相続してトレモレルと結婚するのだ。冗談だろうと思ったトレモレルはベルトが実行するのに震えあがるが止めようがない。そのうえソブルニーは妻の不倫と毒殺計画を知り、衰弱の中彼らを糾弾し、簡単には妻に遺産が入らないように相続書を書き換えたと哄笑の中伝えると、ついに息絶えてしまった。
 20世紀のエンタメであれば、最後まで隠すことを途中で説明してしまった。序破急の序で見えてきた人間の観察と関係が、破ですっかり反転される。悪と善の役割が交代し、貞節と思われる人が実は不貞を働き、勤勉で誠実な人間が憎悪と復讐心をもっていた。19世紀のエンタメでは犯罪トリックに関心をもっているのではなく(まあ電化されていないし、家電製品はないし、メディアは不十分だし、大量消費社会になっていないし、他人に無関心な大衆社会になっていないし・・・)、スキャンダルと人間観察にあった。
 このあとは現代エンタメ視点では急速にだめになる。地元の治安判事もルコックもトレモレルを探し出せばよいと衆議一決し、巴里にもどるが、やることはルコックの事務所の打ち合わせだけ。ようやく外に出たときには残り10%もない。ルコックが集めた部下が居酒屋や安レストランで待機しているのに命令を下さして、ふたりはまずファンシー嬢を発見。そしてロランス嬢といっしょにホテルにしけこんでいるトレモレルをみつける。そこでロランスとトレモレルの愁嘆場が演じられるが、稀代の悪党とあっては感情移入しにくい。
 この急の場面はほとんどドイル「4人の署名」の後半。ガボリオのは起伏に乏しいのであったが、20年後のドイルは大人のチームのかわりに少年探偵団を起用したり、馬車を使ったチェイスも加えたりとサービス旺盛だった。
 ここではルコックというチームに関心が向く。すなわち一時期ルコックは監獄他で悪党・犯罪者に囲まれて暮らしていたので、地下社会や暴力組織、犯罪者集団のことはだれよりもくわしい。なぜか金持ちであり、パリのアパルトメント兼事務所にはジャヌイーユという女丈夫がコック兼秘書兼ボディガードとして同居している。彼女はなんと殺人と強盗で捕まった罪人。ルコックが引き取ると、忠義を示した。彼が動かせる正規非正規の探偵や警官は数十名に及ぶ。とくにリーダーがいるようには見えないが、ルコックに心酔したナンバー2がチームを統括しているのだろう。そのためにルコックは金を惜しまない(数十人の要人の秘密を握っているので金を集めるのは簡単と豪語する)。彼は人間観察が趣味であり、アパルトメントには各種職業の衣装が大量に保管されていて、化粧術・変装術の研究に余念がなく、自分の本当の顔を忘れるほどに誰にでも変装できる。金のあるディレッタントというわけだ。
 なるほどルコックは凡庸な常識人、顔を持たない/誰にでもなれる無個性な個人。シャーロック・ホームズルコックディレッタントデュパンの天才を足したキャラとして想像されたのだ。顔を持たないという特性が犯罪者に付けられると、ルブランのルパンや「ジゴマ」らになる。

 


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