odd_hatchの読書ノート

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エミール・ガボリオ「ファイルナンバー113:ルコック氏の恋」(KINDLE)牟野素人訳-2 20年前の三角関係が今を苦しめる

2023/07/20 エミール・ガボリオ「ファイルナンバー113:ルコック氏の恋」(KINDLE)牟野素人訳-1 要塞のような大金庫からの大金盗難事件 1867年の続き

 

 続いて事件の前日譚が始まる。ここで「第1部」とされるのは、2巻物の下巻だからであろう。
 時は1841年にさかのぼる。フランスの田舎にクラムラン城があった。その城主は隣のル・ヴァルブリー伯爵夫人ととても仲が悪かったのである。しかし、クラムラン家の長子ガストンはル・ヴァルブルー伯爵夫人の娘ヴァランティーヌに一目ぼれしていた。二人は結婚の約束をしていたが、親は許しそうになる。ある晩、酒屋でガストンは酔客に絡まれけんかになり、持ち出したナイフが酔客を刺してしまう。ガストンはさっそく逃亡することにし、ヴァランティーヌに駆け落ちをもちかけたがすげなくされる。というのも、ヴァランティーヌはガストンの子を腹に宿していたからである。愁嘆場を演じた後、逃げ出したガストンは捕吏につかまる寸前に河に落ちて行方不明になり、公式には死亡とされた。ヴァランティーヌは一子を出産するが、親の手によってどことも知れぬ家に養子に出されたのである。美貌のヴァランティーヌに言い寄る男はたくさんいたが、親はある金融家を選んだ。ヴァランティーヌは年上の男をちっとも好きになれなかったが、その金融家は親を篭絡したのである(おお、夏目漱石「こころ」ではないか)。それからおよそ20年、新たな子をもうけ平穏に暮らしていたヴァランティーヌの前にクラムランを名乗る男がやってくる。これこそガストンの弟ルイである。公爵家を継いだものの全財産を使い果たしたルイは、ヴァランティーヌの最初の子、養子に出されて行方不明であったラウル・ラゴールを見つけ出し、親子の再会を演出したのである。ラウルはルイと同様の放蕩息子、浪費に次ぐ浪費でヴァランティーヌに無心する(ここでチリに渡ったガストンがフランスに帰国し、再会したルイに財産を贈る手続きをして客死するまでの話は割愛)。それはルイの差し金であり、ルイはヴァランティーヌを破滅させたところで救いの手を差し伸べ、彼女の感謝と姪のマドレーヌとの結婚を得るつもりだった。その計略のなかに、マドレーヌと婚約しているプロスペルから金庫の暗号を聞き出し、大金を盗むというのがあったのだ。それはうまくいき、ルイとラウル・ラゴールは歓喜するのであった。でも、ヴェルデュレーが彼らを監視していることには気づかない。
 1867年に出版されたということを記憶すると、これはフランス革命後にようやく生き延びた貴族階級が19世紀の資本主義化、グローバル経済化で没落していく話に他ならない。すでに貴族は土地の貸し代だけでは収入が圧倒的に不足しているのであり、工業をよくする新興のブルジョアにはかなわないのである。
「製鉄所の所有者という身分(注:兄ガストンから譲り受けた)は、侯爵という称号などよりずっとずっと高い地位の響きを持っている。(p.447)」
とルイに語らせているように、貴族は落ち目なのであった。ルイやラウルは「最後の貴族」として没落に抗おうとするが、すでに犯罪をするか僥倖にあうかくらいしか上昇のチャンスはなく、犯罪に手を染めるしかない。一方、新興の階級であるブルジョアはフォヴァル氏のように堅実で勤勉な生き方をしている。金をもち、かつ生活をきっちり律している実業家は社会的な影響力でも、生活の道徳化でも、貴族を圧する存在感を持つのだ(しかし単調で中庸な生活は小説のようなドラマやスペクタクルにはむかない。トーマス・マン「ブッデンブローク家の人々」など)。
 第2部で時は現在(1866年と書いてあった)に戻る。以上をルコックはプロスペルに話したが、短慮なプロスペルは夫人告発の匿名の手紙を出してしまった。俺の計略をめちゃくちゃにするのかとルコックは激怒する。フォヴァル氏は手紙を読んで焦燥と嫉妬と激怒を同時に感じる。夫人の部屋を調べて宝石がないことを確かめると、決着をつけると夫人の部屋に乗り付けた。そこにいたのは「真人間になる」と改心したラゴールがいる。ルイが放った殺し屋に因縁をつけられ決闘で危うくいのちを失うところであり、ついにルイに従う気持ちをなくしたのだった。激怒するフォヴァル氏には哀願の言葉は届かない。そこにルコック氏登場。上の事態を説明してフォヴァル氏を諫め、ラウルがヴァランティーヌ夫人の実子ではないことを暴露する。フォヴァル氏はすべてを許して(おおポーマルシュ「フィガロの結婚」のフィナーレと同じ)、夫婦の結束はさらに固くなるのであった。そしてルイはガストンを毒殺した負い目で狂気に至る。
 主題は夫婦や親子の愛なのであった。愛を継続するには、さまざまな障害があっても克服する努力と相手を裏切らない信念が必要なのだ。それを徹底した「正義」の人に幸福は訪れる。正義かどうかは行動にもよるがむしろ邪な心を持たないことが重要。一度悪の暗黒面に落ちた人はそれから抜け出すのは容易ではない。なので人々(読者)よ、気をつけろ。というのがガボリオのメッセージ。さらに加えると、貴族のクラムラン家は親子の仲たがいに兄弟の仲たがいがあり犯罪がおきるのであるが、ブルジョアのフォヴァル家や改心して実業家になったガストンには親子や兄弟の愛は実現するのである。ガボリオの雑誌(もしくは新聞)連載小説を読んでいる読者の大多数は都市のブルジョアであることを思うと、小説はブルジョアの欲望を満たすための装置であることがわかる。ルイ・ナポレオンの第2帝政の時代ではあっても、資本主義化と都市化が社会の構造を大きく変えているのがわかるのだ。
 この世界で二番目の長編探偵小説(諸説あり)も、主題が金庫破りと横領にあるというのも、ブルジョアの側からすると大きな犯罪であるから採用したというのがわかる。労働者の命が安い時代において、信用ある企業がひとつふっとぶような事態のほうがブルジョアには深刻な事態であったのだろう。その犯罪をたくらむ者が貴族やその崩れであるとすると、小説からは「貴族を信用するな」というメッセージが込められているとみなせる。もうひとつは国家警察は有能であるというメッセージもあり、彼らの仕事の邪魔をしてはならないとかいうことを聞くべきという服従の宣伝も聞き取れる。
 エドガー・A・ポーの「モルグ街の殺人」でも都市の犯罪を描いたのであるが、そこでは共同体の集まりに見えてもそこには裂け目があって交通が行われていない空間があることをしめした。都市の不気味さ、恐怖などを見出した。でもガボリオの長編では、すべては安定と中庸にむかう。それは現在の秩序や体制を維持することを目指している。そういう保守の側から書かれたのがルコック刑事の探偵小説譚なのだ。
 現在の犯罪とその調査を記述するよりも、その事件に至る過去の経緯のほうが詳しく書かれる。犯罪の方法や真犯人よりも、そこに至るまでの家族の確執のほうがより大きな関心事であり、嫉妬と愛情のもつれがほどけ、関係者の憑き物が落ちることのほうが大事なのだった。これは現代のソープオペラや連続テレビドラマでも行われている大衆の欲望。犯罪の謎を解くこと自体に関心をもつことは創始者エドガー・A・ポーを除くと19世紀から20世紀初頭まではほとんどなかったともいえる。それが逆転して、不可能な犯罪を合理的論理的の説明することに快楽を見出すようになるのは、WW1のあとになってから。市民社会大衆社会に変貌する過程で、新たな欲望が見いだされ、新しいジャンルとして生まれたのだといえる。(1980年以降のサイコパスの動機のない犯罪やモダンホラーの大量殺人に快感を得ようとする欲望が生まれたのは、大衆社会がさらに別のものに変貌していったからとみなせそうだ)。

 


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<参考>
 ドイルの長編探偵小説はガボリオやボアゴベの長編の影響を強く受けている。
2018/02/9 コナン・ドイル「緋色の研究」(角川文庫) 1887年